小林 暢子/日経BP 総合研究所 主席研究員

「人的資本」という用語の普及とともに人材育成への投資意欲が高まる。投資しても辞める確率も高い転職時代の今、納得感を高めることが欠かせない。

 「人的資本への投資が企業の将来価値を高めるために有効という認識は広がりつつある。一方で『辞めてしまう可能性のある人材にどこまで投資すべきか』と迷う経営者もいる」

 岸田文雄内閣で「新しい資本主義実現会議」のメンバーにも名を連ねる東京大学の柳川範之教授は、2022年6月の「日経ビジネスライブ」での人的資本をテーマにした講演で、こう話した。

 工場や設備などの固定資産に対し、人材投資は「人」を扱うので、投資に対するリターンの予測が難しい。従業員に投資しても、それが彼ら彼女らの満足感や充実感を向上させないと、成果を生み出さないからだ。お金をかけるだけでなく、人の「感情」への配慮が必要になる。

育てられている実感がない

 感情への配慮が欠けて投資がうまくいかない例として、幹部育成がある。様々な企業が幹部候補の育成プランを作り、計画的に様々な仕事を経験させようとしている。だが柳川教授は「当人にそのプランの内容と詳細を伝えていない場合も多い」とみる。それがないまま部署の異動や仕事内容の変更を繰り返すと、「当人は『行き当たりばったりで利用され、使い捨てにされるのではないか』と不安を感じる」(柳川教授)とする。

 長期雇用を前提とした日本型採用では、将来の人事を明言することはタブーだった。だが、転職が一般化した今、社員は「先の見通し」を勤務先に求め、それがないと「不安」として次の行動に出るようになっている。有望な社員を残したいのであれば、そうした感情に配慮し、処遇への納得感を高めなければ、人材の流出は止められない。

人材の育成や登用では、その意図や「先の見通し」を本人の感情に配慮しながら伝え、納得感を得ていくことが必要だ<br><span class="fontSizeS">(写真:gettyimages/Lane Oatey / Blue Jean Images)</span>
人材の育成や登用では、その意図や「先の見通し」を本人の感情に配慮しながら伝え、納得感を得ていくことが必要だ
(写真:gettyimages/Lane Oatey / Blue Jean Images)

 「抜擢と異動のときのセリフが当人の人生を変える。上司や人事担当には『今回なぜ異動案が出たのかという意図や本人にとってどう素晴らしいことかを必ず伝えてほしい』と言い続けている」。サイバーエージェント常務執行役員 CHOの曽山哲人氏はこう話す。創業間もない時期に多数の社員が退職した苦い経験を持つ同社は、社員を定着させるため様々なノウハウを蓄積している。

 「配慮と納得」を国内の日本人社員向けに限った話と捉えてはならない。海外法人では転職など前から当たり前だろう。人材投資の視点を広げて、早く海外拠点、そして外国人社員にも実施しなければ、日本企業の競争力は失われるばかりだ。

小林 暢子(こばやし・ながこ)
東京大学文学部心理学科卒業後、外資系コンサルティング会社を経て1991年日経BP入社。「日経情報ストラテジー」「日経コンピュータ」などのIT専門誌編集を経て2013年「日経情報ストラテジー」編集長。17年から人事室長を務め20年4月から現職