聞き手/安達 功(日経BP 総合研究所フェロー)
資源リサイクル主体の廃棄物処理事業を加速させて事業の永続性を高め、環境創造企業への進化を果たす。自律・分散型社会とカーボンニュートラルの実現に貢献する「地域循環共生圏」の構築に挑む。
創業以後の歩みについてお聞かせください。

1956年10月兵庫県西宮市生まれ。大栄環境設立時の発起人の一人。83年三重中央開発取締役、90年大栄環境取締役。2002年に取締役副社長就任を経て、07年より現職(写真:太田 未来子)
金子 文雄 氏(以下、敬称略) 当社は1979年に大阪府和泉市で創業し、埋立処分事業から廃棄物処理業界に参入しました。埋立処分事業はもっともハードルが高く、私たちの計画が分かった時点で地域を挙げて反対される。行政から事業の必要性を認められて許認可を受けても、反対する住民の方々から許認可取り消し訴訟を起こされると和解まで10年かかるといったような状況でした。
創業の地である処分場は現在、埋め立てを終えて公園に生まれ変わり、地域の皆様に親しまれています。私たちの事業は地域の信頼なくして成り立たないものです。その思いは、これからも決して変わることはありません。
また「廃棄物は資源」という考えに基づき、早くからリサイクル施設を開設するなど、持続可能な事業形態への転換に取り組んできました。
リサイクル事業拡大のきっかけは何だったのですか。
金子 95年の阪神・淡路大震災でした。当時、グループ本部を構えていた兵庫県西宮市も大きな被害を受けたため、創業者の下地一正が「地域のために何か役割を担わねば」と、西宮市に災害廃棄物の処理事業を提案して採用されました。すると、芦屋市や尼崎市、伊丹市、神戸市など周辺の自治体から、一気に災害廃棄物処理の依頼が寄せられました。最終的には震災廃棄物全体の3分の1の処理に私たちのグループが携わったことになります。
早期復興を実現するため、海外から移動式の大型破砕機などを取り寄せ処理を進めましたが、「災害廃棄物の処理需要がなくなれば事業が行き詰まる」という危機感がありました。
そこで97年に第1次経営計画を策定し、各事業拠点でリサイクル施設を拡充してリサイクル事業に本腰を入れました。3年後の2000年に「循環型社会形成推進基本法」が制定されて日本は循環型社会を目指すことになります。それから当社グループの業績は大きく伸び、以降は経営計画の目標も常に前倒しで達成してきました。第1次経営計画で目指したリサイクル事業の集大成が、発電や地域への熱供給が可能な廃棄物複合型リサイクル施設「三重エネルギープラザ」(13年竣工)でした。

(出所:大栄環境)