変化の激しい時代に、細部まで詰めてから物事に臨む姿勢では生き残れない。我々が本質的な目的に近づくヒントとして進化の理論を紹介する。

 コロナ禍の中、人々が挨拶がわりに「ワクチンの免疫効果はどのくらい持続するのか」などと免疫の話をすることは、もはや日常の風景となっています。

 免疫とは、一言で言えば「偶然性が作り得る生物的な逆境に対峙する機構」のことです。病原体といつどこで出合うかを予想して対処するのは不可能です。免疫システムは、対処の誤りを修正する多くのメカニズムを持っています。

 生物において、あらかじめ完璧にデザインされた固定的なシステムはありません。免疫システム自体も、長いプロセスを経て進化してきました。

複雑系での進化の方法

 複数の要素が関係し、個々の要素の分析だけから全体の動きを理解するのが困難なシステムを「複雑系」といいます。免疫システムも複雑系の1つです。免疫研究で世界的に有名なフィリップ・クリルスキー博士は、免疫の進化は「PAC理論」と同じプロセスだろうと述べています。

 PAC(Probably Approximately Correct)、「おそらく、大体正しい」というモードにAI(人工知能)を設定すると、反復学習によって、結果的に高度の正確さと進化がもたらされます。計算機科学の大家レスリー・ヴァリアント教授は、この進化の仕組みを「PAC理論」と名付けました。複雑で変化の激しい世界で、生物はなぜ環境に適応して生き残ってきたのか。その鍵とも言われる理論です。

 複雑系では、ある行動が全体の結果にどうつながるか、1対1の因果関係で説明するのは困難です。分解した要素の評価指標をどれだけ厳密に取っても、本質的な目的の評価にはつながりにくい。

 だからこそ、本質的な目的に対して、「おそらく、大体正しい」かどうかを高頻度に検証するPACの姿勢が、複雑系で進化する道だということです。

検証されない本来目的

 クリルスキー博士は、自著(※)でPAC理論がうまく機能する3つの要件を示しています。

 ① 本質的な目的が明確なこと。生物では環境適応や生殖の成功
 ② 高頻度に検証されること
 ③ 行動とその結果から学ぶこと

 ただ、複雑系の社会における実務では、これがなかなかうまくいきません。企業の健康経営を例に取って見てみましょう。

 よくある企業の健康宣言には、「社員が生き生きと働き、人々を幸せにする」といった文言が並びます。しかし、「本当にこの目的に近づいているか」が検証されることは、めったにありません。末端の指標(健診受診率、教育実施率、喫煙率など)を設定し、年に1回進捗状況を把握するだけというケースもあるでしょう。それが当たり前にさえなっています。いつの間にか、「今年も〇%の社員に教育実施」というプロセス評価に満足し、手段が目的化していきます。

 PAC理論の肝は、「本質的な目的に向かっているかどうかを検証する」ことです。これを阻む背景には、不確実さや曖昧さに対する私たちの恐れや防衛意識があるように思います。「本当にその指標で効果が分かるのか」「この事象はまだ検証できる段階にないのではないか」と指摘されたくないのです。誰からも文句を言われない数値を求めて、検証自体を半ば放棄してしまうことすらあります。

 そもそも、複雑系はパーツに分けて評価した時点で、正確な評価にはなり得ません。物事を細部まで完璧に詰めてからでないと前に進まない風土では、残念ながら変化の激しい世界で生き残っていけないのではないでしょうか。

※「免疫の科学論 偶然性と複雑性のゲーム」(フィリップ・クリルスキー著、みすず書房)