社会や組織において、情動が人々の行動に及ぼす影響の大きさを知る必要がある。情動のしくみは悪用される危険もある反面、組織の活力を高めることもできる。

行動に結びつく「情動記憶」

 みなさんは、はっきりと理由は分からないものの、なぜかそのお店に行きたくなるような経験はないでしょうか。今回は、無意識の「情動記憶」の話です。

 情動の記憶に関しては、スイスの心理学者クレパレード氏の逸話が有名です。彼は通常の記憶(エピソード記憶/海馬記憶)が失われた女性患者を診察する時、患者の指をピンで刺しました。数日後、再び同じ患者を診察した時、彼女は記憶障害のため以前の診察を覚えていなかったにもかかわらず、クレパレード氏を見た途端、とっさに手を引っ込めたのです。

 前回、情動とは「特定の状況、例えばある危険から遠ざかり、特定の利益になるものに近づくために脳や身体全体を調整し、調和した行動を起こさせる生き残りのメカニズム」であると述べました。彼女は以前何があったかの記憶自体は忘れていても、「ここで手を出すと危ない!」と瞬時に全身が調整され、無意識のうちに危険から遠ざかる行動を取ったのです。こうした記憶は「情動記憶」と呼ばれます。

 「人はあなたが何を言ったか忘れてしまう。人はあなたが何をしたかも忘れてしまう。しかし人は、あなたがその人をどのような気持ちにさせたかを決して忘れない」。米国の公民権運動に関わった作家マヤ・アンジェロウ氏の言葉です。前半は通常の記憶(海馬記憶)、後半は情動記憶といえます。情動記憶はまるで脳の奥底に貼り付くようにして残り、その人の「行動」に大きく影響するのです。

 広告や宣伝は、いかに人の情動記憶に影響を与えるかを競っているともいえるでしょう。情動は人の行動に無意識のうちに大きな影響を与えるため、悪用されることもあります。最近問題になるプロパガンダやフェイクニュースは、人々の情動を操作しようとするたくらみです。

非言語の力

 情動に影響を与える基本要素を知る上で、面白い実験を紹介しましょう。少し古いですが、1984年に実施されたレーガン氏対モンデール氏の米大統領選での実験が大規模で有名です。

 まず、選挙前に米国の3つの主要テレビ局(CBS、NBC、ABC)のニュースキャスターが候補者について報道する映像の音声を消して、その「表情のみ」を被験者に見せました。そして、ニュースキャスターの表情が消極的か、それとも積極的で好意的か、21段階で点数をつけてもらいました。

 その結果、CBSとNBCのキャスターはレーガン氏とモンデール氏の2人の候補者について話すときの印象に大差はありませんでしたが、ABCのキャスターは違いました。レーガン氏について話す時の方が積極的で好意的な表情だったと、被験者は評価したのです。

 さて、選挙時にクリーブランド市の住民に、誰に投票したかと併せて普段よく見ているテレビ局について聞いたところ、レーガン氏に投票した人の割合がABCの視聴者がCBSやNBCの視聴者と比べて有意に高くなりました。

 この結果について、普段見ているニュースキャスターの「表情」が、人々の「行動(投票)」に、無意識のうちに影響を与えたと考察されています。語り手の表情やしぐさは、受け手の情動に多大な影響力があり、行動を左右するのです。