働くことの喜びを考える上で、今再び「フロー理論」が注目されている。丸井グループで私がWell-beingを担うようになったきっかけもフロー理論だった。

 「ストレスなく働くには」という言葉が、世の中では多く聞かれます。医師になりたての頃は私も、ストレスはとにかく避けるべきものと考えていました。

 20年前、産業医として初めて勤めたのは非鉄金属メーカーでした。企業の専属産業医は日頃から、職場に足を運び、社員が働く様子を詳しく知ることができます。

 着任してしばらくたった頃、私はあることに気が付きました。極めて多忙な中、「いやぁ、大変ですよ」「ストレスばかり」などと言いながら、明らかにイキイキ働いている人がいるのです。例えば、電線の被覆材の品質改善に打ち込む社員や、社運をかけた製品の開発や営業に没頭する社員です。

 その頃私は、産業医をしながら病院でも心療内科の外来診療をしていました。病院には様々な職業の方が「働くのがつらい」と訪れます。毎週毎週、会社ではイキイキ働く人と、病院では働いて病気になった人と、両極の人たちと接していました。会社でも「上司とうまくいかず眠れない」など諸理由から不調を来した社員の健康面談をしていました。

 おのずと、「人が幸せに働くとは、どういうことなのか」への興味が増していきました。そこで社会人大学院生になって研究し、産業医の勉強会でも学ぶ中で、「フロー理論」を知りました。

 フローとは、自己目的的(自分がやりたくてやる)、かつ全人的に1つの行為に没入しているときに感じる感覚であり、深い楽しさや喜びを伴います。これは幸せに働くことを考える上で、ひとつの鍵になる知見だと思いました。

フロー状態とは

 心理学の世界では旧来、「人はなぜ心を病むのか」が研究されてきました。そうした中で、米シカゴ大学名誉教授などを務めたM.チクセントミハイ氏は、早くから「楽しさや喜び」について研究し、フロー理論を提唱した、世界的に有名な心理学者です。残念ながら2021年10月、87歳で亡くなりました。

 数十年にわたる膨大な実地研究によると、人が深い楽しみの感覚を感じる時、その時の体験を非常によく似た言葉で表現することが分かっています。仕事をする、山に登る、チェスをするなど活動自体は様々ですが、年齢や性別、国籍、教育に関係なく、その時感じていることは驚くほどよく似ていると、チクセントミハイ教授は言います。

 彼はその共通の体験をフローと名付けました。「流れ」という意味の英語「flow」が由来です。物事に集中していると自意識が薄れ、まるで何か大きな流れに乗っているような感覚になることから、そう名付けられました。チクセントミハイ教授は自著(※1)で次のように述べています。

 「たとえば登山家は凍りつくほどの寒さを感じ、疲労困憊し、底なしのクレバスに落ち込む危険に瀕することもあるが、それでもどこか他のところへ行きたいなどと思うことはないだろう。(中略)ダンサーは、巧くなるために、人間関係や親の立場、また人生の多くの喜びを捨て、その芸術の厳しい練習に全生命をなげうっている。それを行なう瞬間、楽しみは肉体的な苦痛であり、同時に精神的にも負担の重いものになることもあるが、しかしエントロピーの力と衰退を超えて達成感を味わうことができるがゆえに、それは精神を豊かにするのである。楽しみは、振り返ってみて、人生を豊かにし、また未来に立ち向かう自信を与えてくれる思い出の土台となるものである」

※1 『フロー体験とグッドビジネス─仕事と生きがい』(世界思想社)