半澤 智

コロナショックによって企業価値向上の努力が水の泡になりかねない─。「伊藤レポート」を執筆した伊藤邦雄氏や柳良平氏が、警鐘を鳴らす。

 2020年4月下旬、エーザイでCFO(最高財務責任者)を務める柳良平氏の元に、経済産業省と東京証券取引所の幹部から立て続けに電話がかかってきた。いずれも内容は同じだった。「今の日本市場は非常にまずい。日本企業が進めてきたこれまでのガバナンス向上の努力が水の泡になりかねない」。

 柳氏は、エーザイでCFOを務めながら、早稲田大学大学院会計研究科客員教授の肩書を持つ理論派だ。経産省が14年8月に公開し、日本のガバナンス改革の起爆剤となった「伊藤レポート」(次ページに執筆者の伊藤邦雄氏の談話)の執筆委員で、日本の企業価値を高めるために「株主のための稼ぎ」を示すROE(株主資本利益率)の目標水準を8%とした根拠を、投資家調査や企業業績などから導き出した。

 国の幹部が抱く危機感は、日本企業に根付いてきたガバナンス改革やROE向上の機運が、停滞するどころか逆行しかねないというものだ。

相次ぐ自社株買い中止

 この危機感の背景には、世界で進む「脱株主」の流れがある。

 米国の主要企業が名を連ねる経済団体ビジネス・ラウンドテーブルは19年8月、これまでの「株主第一主義」を見直し、従業員や地域社会を尊重した経営に取り組む声明を打ち出した。20年1月に開催された世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)では、会議の創設者であるクラウス・シュワブ氏が、企業は株主だけでなく、全ての利害関係者に貢献すべきという「ステークホルダー資本主義」を訴えた。

2020年1月21~24日に開催された世界経済フォーラム。フォーラム創設者兼会長のクラウス・シュワブ氏は、「ステークホルダー資本主義」を唱えた
(写真:ロイター/アフロ)

 こうした流れをコロナショックが加速させている。航空機大手のボーイングは20年3月20日、自社株買いと配当金の支払いを無期限に延期すると発表した。半導体大手のインテル、石油大手のシェブロン、通信大手のAT&Tなども自社株買いを中止した。自社株買いは株価を上げる効果が見込める。しかし、中止すれば投資家が離れかねない─。こうした葛藤のなか、コロナショックが「脱株主」の背中を押している。

 国内企業にも同様の動きが出始めている。トヨタ自動車はこれまで決算発表に合わせて自社株買いを発表してきたが、5月12日に開催した決算発表会ではそれを見送り、配当も未定とした。発表直後、同社の株価は約6%下落した。

 5月14日には、ヤマダ電機やグンゼも自社株買いの中止を発表。いずれも、新型コロナウイルスの影響を受け、手元資金の確保を優先した。ヤマダ電機の株価はこの発表直後、10%近く下落した。

 今は、運転資金の確保や雇用の維持を図る“止血”の段階だろう。しかし、株価向上は投資を呼び寄せ、企業を成長させるための重要なバロメーターであることに変わりはない。こうした状態が続けば、投資家にそっぽを向かれかねない。

 国は、伊藤レポートを旗印にガバナンス改革やROE向上を推し進めてきた。そのかいあって、日本企業の平均ROEは9%程度まで上昇してきたが、米国は18%、欧州は13%程度と、依然として海外と比べて開きがある。投資家にとって日本市場は、まだ魅力的な市場とは言い難い。