アメリカでは学会と産業界を行ったり来たりすることが普通であり、町医者にもなれる研究者があまたいる。その両者の回廊となるのがMBAコースであり、ここで、理論と現実の邂逅(かいこう)が起きている。日本の研究界と産業界にもこうした邂逅の場を増やすことが必要ではないか。

(写真:123RF)
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 この連載は、「人事の成り立ち」「人事の組み立て」に続く、3作目の人事概論となります。前々著では歴史、前著では理論、そして本作では実践をテーマにいたしました。たぶん、私らしさが一番出たのが、本作だと思っております。

地べたを這った20代

 実は、私は人事実務そのものに、精通しているとはいえません。リクルートキャリア社で、新人事制度を作る時の企画責任者と、新卒採用のプロジェクトリーダーといった形で2度ほど携わっただけであり、その期間は社会人生活通算の1割にも満たない短さです。

 それよりも、やはり、制作・編集担当として、多くの会社を外から見ながら、比較してきたことが、私の人事観・人事勘を作り上げた主因だと思っております。

 リクルートグループに第二新卒で入って、最初の6年間は『B-ing』や『とらばーゆ』といった求人広告誌の制作を担当しておりました。毎週5社、年間延べ300社ほど取材し、それを記事にしたので、6年だと延べ2000社、重複を減じても1000社ほどは担当したはずです。量的にもけっこう大変ですが、効果が出ないと顧客から厳しいことを言われます。つまり、精神的にもけっこうハードな仕事でした。

 たとえば、効果が上がらない中で、さらに原稿ミスまで重なり、激怒したクライアントから、「毎週こちらに来て、社長の訓示を受けること」と命じられ、会社から2時間かけて埼玉県の人形の町、岩槻まで赴き、毎回2時間怒られて帰宅したこともあります。

 当時、私の部署は、転職エージェントに併設された広告制作部隊でした。なぜ、エージェントに広告部隊があるか。それもなかなか厄介な裏事情がありまして……。その頃、エージェントは、前金型(採用が決まろうが決まるまいが、まずクライアントからお金をもらう)というかなり危ういビジネスをやっていたのです。たとえば、1人150万円×5人採用であれば、最初に750万円もらってしまう。ですが、実際には決まらない場合が多い。そうした時、この750万円を求人広告に「振り替えて」、消化する。言わば尻ぬぐいの役割が「広告制作部隊」には課されていたのです。

 この振り替えで一番つらかったケースは、神奈川県の綱島にあるメッキ工場の一件。ここで約1000万円もの振り替え広告を作ったことです。『B-ing』モノクロ2ページ地域版で140万円を7本。2カ月近く、この工場に通い詰めることになりました。

 こんな、地べたを這うような20代の毎日を今でもよく思い出します。

無理難題が「引き出し」を増やす

 その後、制作からマーケティング・企画に異動し、さらに広報や合併プロジェクトを担当したあと、30代半ばからはリクルートワークス研究所にて、機関誌『Works』の編集長となりました(ここで相棒の荻野進介氏と出会います)。久しぶりの制作職に心は躍りましたが、20代の時とは全く光景が異なります。国内超大手やアメリカでの現地取材、高名な大学教授への取材やコラボ等々。エクセレントの極みを経験しました。

 そして、またマーケティング・企画に戻って、人事プロジェクトと新規事業開発を5年間担当し、独立。その後はニッチモで『HR mics』編集長として13年間を過ごします。書きました通り、すでに中小企業から大企業、米国本土まで見て来たけれど、一方で欧州や、教育関連・労働組合・職業訓練・社会保障などを含めた雇用総体を語るにはまだ足りなかった。その部分を、『HR mics』の特集を通じて身につけてまいりました。

 振り返れば、スマートな理論体系に沿って育ったことは一度たりともなく、虫食いのたたき上げを繰り返しながら、何とか穴をふさいでできたのが私の雇用・人事観。スマートではない分、現実に立脚して、野太くなったと思っています。

 私は、セミナーなどで、参加された企業の経営者から、実務ベースの質問をぶつけられるのが大好きです。過去に「無理難題」を持ち掛けられ、そのたびに苦慮して増やした「引き出し」が活かせるからです。それこそ、殿上人と一番差がつくところだから、という思いでおります。  

『人事の成り立ち』『人事の組み立て』でも、私なりのパースペクトを下敷きにしておりますが、正直なところ、たたき上げの真骨頂は示し切れてはおりません。そんな不完全燃焼感が募る中、本書では思いを晴らさせていただきました。