こういうことが文化であり、伝統であり、時代を超えた人の営みということだよなあ…。そんなことを思うのも年のせいだろうか、人形を飾る私たちはもはや、じいじ、ばあばである。

持続可能という言葉は、1987年にノルウェーのブルントラント首相が国連の「環境と開発に関する世界委員会」の報告書で「持続可能な開発」と使ったのが最初だが、今では、持続可能な社会、持続可能な地球など頻繁に使われている。こんな言葉が飛び交うのは言うまでもない、これから先、人が安全に安心して暮らしてゆけるような社会環境や地球環境が維持できるかどうかという恐れが現実的なものになってきているからである。

なぜこんなことになったのか。その理由は技術の進歩にある、と言ってもよいだろう。技術は生活を一変させた。家の中は、機械だらけで、スイッチを押すだけで、生きてゆくのには困らないほどだ。それだけではない、スイッチひとつで映画も音楽も、情報も、書籍も、思いのままに手に入れることができる。

機械は人ができないことをやるだけでなく、人ができることでもやってくれるから便利なことこの上ない。人は不便より便利がよいから、もっともっとと便利を求める。便利とはモノで、モノが作られるのは使うためで、役に立たなくなれば捨てられる。自然界では、生物の営みによって生ずるものには無駄がなく、全てが次の世代のため、生態系を維持してゆくために利用される。だが、人は無害化も再利用もできないモノまで作って捨ててしまう。それがたまりにたまればどうなるか。必ず限界がくる。

人は、いったん手に入れた便利さを手放すことはできないだろう、そしてこれからも便利さを求め続けることだろう。何かを得るということは、何かを失うことだが、便利さの代償として私たちは何を失ったのか。これから、何を失おうとしているのか。ひとごとでは済まない時期にきているのではないか。技術やモノは残っても、伝える人、伝えられる人がいなくなってしまえばもとも子もないのである。

(中日新聞 2012年5月31日掲載「長寿の国を診る」より)