マグニチュード9、15メートルの津波、福島原発の壊滅と放射能汚染。2011年は東日本の震災で記憶される年となった。災害の甚大さについては言うまでもないが、震災対応では、相次ぐ大臣の更迭の揚げ句、内閣までが霧散してしまい、震災の危機管理よりも国家の危機管理の深刻さを露呈してしまった。

なぜこんなことになるのか、言葉の問題が気になるのである。危機状況にどう対応するのか、言葉によっては使い方が問われ、品性が問われ、事態はより紛糾する。

例えば、原発で問題となっている事故とは災害とかの言葉から受ける印象は大きく異なる。だが、広辞苑では、事故は「思いがけず起こった悪い出来ごと。また、支障」、災害は、「異常な自然現象や人為的原因によって人間の社会生活や人命に受ける被害」とある。これだけみても、どちらの言葉を使うかは、相当に難しいことがわかる。

政治家に限らず、不用意に言葉を発したがために窮地に陥った例ならいくらでもあるが、一連の舌禍騒動とその揚げ句の大臣のポストの軽さは何なのだろうか。

もう一つ気になってならない言葉がある。今は、国会中継をテレビで見ることができる時代だ。執行部を攻撃する野党の常套句に、「民意をどう考えるのか」「国民の理解が得られると思っているのか」があるが、「民意」、「国民の理解」と叫ぶ議員の姿が、テレビドラマで正義を振りかざす役者の姿とダブって見えてしまうのである。民意とか、国民の理解とは、何のことを言っているのだろうか。

国会議員の使命とは、国民の命と財産を守ることである。私たちが知りたいのは、話術の巧みさではなく、国、社会、国民のために、身を捨ててでも働こうという覚悟と姿勢だ。票を獲得するために悩みながら、ポピュリズムにへきえきしている議員さんも少なくないとは思うが、本気で命や財産をまかせて悔いのない議員はどれほどいるのだろうか。

近い将来、東海・東南海・南海地震と3・11に匹敵する大地震が来るのは避けられないという。そして、未曾有の超高齢社会である。被害や犠牲を最小に止めるのは、人であり、言葉だ。言葉は人を勇気づけ、生かしもするが、使い方一つで人を傷つけ、死に追いやるだけでなく、時には社会や国をも壊してしまうのである。

(中日新聞 2011年12月27日掲載「長寿の国を診る」より)