「どこで、どのように死ぬか」

真剣に考えて準備しておかないと危ない、ということに多くの人が気づき始めている。終末期をどう迎えるか、本人の意思は尊重されなければならないということに、反対する人は少ないだろう。だが、現実はどうか、延命目的だけの人口栄養なら止めて欲しいといった生前の意思はどれぐらい生かされているのか。

尊厳死と本人意思とはどうあるべきかという議論なら、昨日、今日のことではないが、同じところを堂々巡りしているだけである。人工呼吸器と脳死、胃ろうと終末期医療など新たな医療技術が開発されると、その技術の扱いと死のあり方をめぐって議論が沸騰するが、そのたびにゼロからの出発となる。

どこで死ぬか、はこれまで話題になったことがないが、そんなことは考える必要がなかったからだ。今は80%以上の人が病院で死ぬが、一九七〇年ごろまではほとんどの人が家で死んだ。家から病院へと、死に場所は変わったが、知らないうちにそうなったので、それが当たり前だったのである。

入院経験のある人ならわかるが、最近の病院では手術など主な治療が終わったら、できるだけ早い退院を勧められる。要するに今後は特別な治療を必要としなくても許されてきた、社会的入院という長期の入院は難しくなる。

すなわち病院という死に場所がなくなるのである。そうなれば以前には当たり前であった、家での死を考えるのは当然だが、実際に調べてみると60%以上の人は、病院での死よりも自宅での死を望んでいるのである。

だったら在宅での医療を充実させ、老老での所帯でも独居の高齢者にも安心して受けられる在宅医療の整備を進めるべきだ。国はこのように決意し、全国に百五カ所の拠点を決め、二〇一二年を在宅医療元年として、在宅医療の推進に本気で取り組み始めたのである。遅すぎたとは思うが、英断である。

やろうとすることは、たとえ独居で寝たきりであっても、安心、納得して住み慣れたところで、終末期を過ごし死を迎えることのできる環境整備である。医療・介護連携はもちろん、地域あげてのシステムづくりが必須だから、時間もお金もかかるだろう。

これが仕分けの対象となって抜本的見直しとなった。まさか、死に場所まで奪うようなことはしないとは思うが、ため息が出る。

(中日新聞 2011年11月29日掲載「長寿の国を診る」より)