人は老い、そして死ぬ。例外はないとは何度も言った。人生五十の時代では「どのように生きるか」だけを考えればすんだ。それ以上生きた人は、生き過ぎた人である。今の高齢者は昔のお年寄りではない。社会がどうあろうと、人生八十、九十の高齢期を「どのように生き、どのように死ぬか」まで考えなければならない。そういう時代である。

十一月に当センターの主催で、アジア・エイジング・サミットを東京で開催し、千二百人の参加を得た。産・官・学・政が、超高齢社会における「この国のあり方」を考え、日本が向かうべき「道標」と「解」を求めて集まったのである。

私は開会に際して、平均寿命が五十歳から八十歳代へ、高齢者人口が10%から40%へ、人口が一億二千万人から八千万人へと、日本は大きく変わる。わが国が「長生きを喜べる社会」を構築するには、これまでの制度やシステムをどう変えていくのか、決断をする時期にきている。

このままでは、家族や社会への責任を果たした高齢者集団と、今、その渦中にある若年層とは必ずぶつかる。高齢者だけに良い社会はありえないから全ての世代が共存・共生してゆくためには、高齢者も自らが変わらなければならない。「頼らない」を合言葉に、動けるうちは身体的にも経済的にも自立をし、自分のために生きる。

公的な支援で足りない分は、利害の一致する高齢者間で互助組織をつくって補い合い、次世代には依存しないという覚悟が必要ではないかとあいさつをした。

さて、自民党の圧勝だった今回の総選挙は、国難に直面する国の行方を決める選挙だというのに、投票率は最低で、世の空気はいまだに冷えたままである。改革とは現状の否定で、本気でやれば痛みは避けられない。知りたいのは言ったことを断行する決意と、その結果生ずる代償の大きさなのに、それを言わない。選挙後に言ったって誰が信用するだろう。

政治の劣化は、システムとそれを運用する構造の劣化である。システムは時間がたつと必ず利権化する。運用するのは人だが、政治家が関わると利権は連鎖して劣化は加速し、腐敗する。

さて、さて。「老人をいかに処遇するかによって社会はその真の姿を露呈する」(ボーボワール「老い」)らしいから、じきにその答えも見えてくるだろう。よいお年を。

(中日新聞 2012年12月28日掲載「長寿の国を診る」より)