百歳以上の老人が生きているのか死んでいるのか、身内も近所の人も行政も、誰もかもが、所在も生死も分からない。行方不明である。こんなことが許されるだろうか―という論調で始まった報道は、そんな老人が二百八十人以上もいることが分かってからは、どう判断してよいか戸惑っているようだ。

それぞれについて詳しく聞けばきっと、「なるほど」という事情もあるのだろう。だが、百歳とはいえ、ひと一人が消えてしまうのだから、ただごとではない。

素性が分かっても分からなくても、引き取り手がない行路死が増えているというが、百歳以上の老人はどれほどいるのか。百歳を超えてホームレスでは体力がもたないから、若いころに亡くなったのが放置されたまま、戸籍上で百歳を超えてしまった方も入っているのか。

まさか、死期を察して人の目の触れないところへ動けるうちに行って、往生するなんてことはないだろう。いかなる事情があれ、百歳以上の人が生きているのかどうかすら分からない社会というのは、不気味だ。

孤独死もそうである。同じ団地に住んでいる人が死後、一週間、一カ月たってから発見される。こんな異常で異様なことはないのに、確実に増え続けているのはどういうことだろう。なぜ防ぐことができないのか。個人情報やプライバシーの保護は、生命の安全よりも優先されると言うのか。堂々巡りの議論は疲れるばかりだ。「お互いの権利や自由を尊重する。干渉はしない」と頑張ってみても、どれもこれも生きていての話で、死んでしまったんでは元も子もない。

やっていいことと、やっていけないことの区別ができるのは人間だけだ。他人の苦しみや死に無関心でいられないのも、人間だけだと思う。けれども、どんなことでもやってしまうのも人間なら、どんなことでも正当化してしまうのも人間だ。

「個人の尊厳を守るという正義や善意が、実は人を死に追い詰めてしまっているようなことはないか―」と言えば穏当ではないが、これから先、“えっ、何だそれは?”と絶句するような事件が増えてゆく気配と予感は、高まるばかりだ。

行き過ぎとは「程度をこえてすること」(広辞苑)だが、このごろの日本は、ちょっと行き過ぎてはいないだろうか。程度も越え過ぎれば、戻れなくなってしまうのである。

(中日新聞 2010年8月29日掲載「長寿の国を診る」より)