成人式の様子をテレビで見ながら、新成人たちは何を考えているのだろうかと思い、四十七年前、母親がどこかから手に入れてきた背広に、はじめてネクタイをしめて成人式に臨んだことを思い出した。あの時、私は何を考えていたのだろうか。

「大人」になるということは、自分の行動に責任をとることです。今日から君たちは…」成人式の定番のあいさつである。あなたたちは「これからは社会の一員として自分の行動に責任を持とう」と誓ったのだろうか。それとも「よくもまあ、恥ずかしげもなく、ぬけぬけと偉そうなことを」としらけているのだろうか。

教師や教育委員会が、やってはならないいじめや行き過ぎた体罰を見て見ぬふり、知っていて隠す。誰のための、何のための政治か、あきれるほどにまで政治への信頼を失墜させた議員たち。放射能汚染に、一方では心配ない、と言い、他方では極めて危険だと言って、科学や学問の権威を泥まみれにした学者たち。

あれが大人たちのしかも指導的立場にいる人たちの現実なら、行動に責任を持てとは聞いてあきれるではないか。表と裏とをうまく使い分けるのが大人だよとでも言いたいのか。人は社会をつくる。社会とは他人とともに生活することだ。

人が集まれば必ず序列を作り、争いを起こすが、それでも群れるのはお互いに助け合わないと生きていけないからである。そして、人は生まれてから一人前になるまでと、老いて動けなくなってからは、他人の世話なしには生きられないことも知っている。

一人前になるまでなら動物でも世話をするが、老いてからの世話をするのは人だけだ。だから老人の世話をすることは、人が人であることの証しである。

人が人として独り立ちでき、老いて人らしく死ねるのは、いつでも誰かが他人のために働き、支えているからだ。大人とは、人には生活や命をかけてでも、自分以外に守らなければならないもののあることが分かっている人である。私は私利私欲のためだけに、他人を利用しようとする人を大人とは認めない。

人は権力にも欲得の誘惑にも弱い。けれども他人のために命を投げ出すことができるのも人である。

成人おめでとう。さあ旅立ちの時である。どんな大人を目指すのか、それによって将来の日本の姿が決まるだろう。

(中日新聞 2013年1月31日掲載「長寿の国を診る」より)