五十歳でがんと診断されたらどうするか。たとえ進行がんであっても徹底的に闘うぞと決断するのに、本人も家族も医療側も迷いは少ないだろう。だが、八十歳だったら、九十歳だったらどうする。徹底して最新技術を駆使した治療に向かうのか。

可能性が少しでもあるのなら挑戦すべきだ、それこそが進歩を生むと主張する人もいる。だが、高齢になればなるほど、一日一日が重要だ。病気と共存してでも、生活のレベルが落ちないような治療を選ぶ方がよい。多くの人はそう考えるのではないか。人生五十年ならやると決めたこと、やらねばならぬことをやるだけで終わったが、高齢社会では、人生八十年、九十年を、どう生きるのか。多様な生命観、死生観が百出する時代になる。

高齢者には、ただ治せばよいという医療はつらいが、では、どのような医療がよいのか。私が講演で話すキーワードは「治す医療から、治し支える医療へ」「病院から地域へ」「専門分化から総合の医療へ」である。

国はこのような医療の実現のために、病院中心の医療から、地域の生活の場のなかに医療もある、という医療提供体制にしようとしている。

今までは誕生から死までのすべてを病院がみてきたが、これからは在宅医療を核にして急性期治療に専念する病院、回復期を担う病院、慢性期やみとりまでをみるところと役割分担をしてゆこうというのである。

ところが、現場がなかなか変われない。役割分担が必要だと理屈では分かっていても、今までのやり方を変えるのは簡単ではないからだ。

高齢者が増えれば社会が変わる。どんな社会になるのか、どのような高齢社会をつくろうとしているのか、そのかたちが見えなければ、どんな医療をどのように提供するのかという医療のかたちも見えてこない。あくまで進歩と成長を最大の価値とする社会を目指すのか、年齢相応の豊かさが得られるような社会を目指すのか、それによっては、医療のかたちも大きく変わる。

どんな医療を目指すのか、医療のかたちが決まれば、必要な資源が決まる。医療における主要な資源とは、人であり、医師である。すなわち、どんな社会を目指すかは、どんな医師が必要かと同じ問いである。医療不足のような問題も、本質は数にあるのではないのである。

(中日新聞 2011年2月27日掲載「長寿の国を診る」より)