専門家とは「ある学問分野や事柄などを専門に研究・担当し、それに精進している人」(広辞苑)だが、原発災害の危機管理のような場面を含め専門家の社会的責任とは何なのだろうか。

今回、専門家の一人が、政府の決めた方針に納得がゆかないと内閣官房参与を辞めたとき、政府は専門家にもいろいろな考え方があると説明したが、安全基準の数値にいろいろあったんでは、被災者に限らず国民としてはたまったものではない。

私も医学・医療の専門家を自任してきたので、人ごとではないが、専門家が下した判断には、後がないと考えてきた。すなわち、ある状況について意見を求められ、専門家としての判断を社会に表明する時には、これ以上はないという根拠のある答えを自負と覚悟を持って出さなければならない。自負とは矜持であり、覚悟とは責任である。

国民の安全のための放射能汚染の基準をどう決めるのか。そんな時に、専門家に求められるのは、科学的根拠に基づく事実と解釈であって、価値観や信念ではない。

専門家の間で見解に違いがあっても不思議はないが、違う意見がそのまま社会に乱れ飛ぶのは困る。素人には、何が正しいのか、分かるわけがなく、戸惑いと不信だけが大きくなるからだ。特に、放射能汚染のように身体に危険の及ぶものでは、ことは深刻である。そんな場合には、専門家集団として、統一した見解を示すか、それができないなら、すべてを公開の場で議論するしかない。なぜ、これができないのか。

考えられることは、そもそも専門家集団に社会的責任という意識がないのか、でなければそんなことをすると、国策にかかわってきた専門家を含め、本物かにせ者かバレてしまうからだろう。

専門家の社会的責任とは・・・。学問の自由と掟のもとに、社会が科学技術を効果的に使用するために、当該技術による利益、不利益や安全性等につき、客観的証拠に基づいて、正確に伝えることである。学問の自由、掟とは、権力や利権はもとより、思想や信条に左右されず、事実を追求しごまかさないという研究者の行動の原則である。

いずれにしても、専門家が危機にあって混乱をさらに助長させているようでは、科学技術の暴走であり、とても科学技術先進国とは言えないだろう。

(中日新聞 2011年5月26日掲載「長寿の国を診る」より)