命と生活が街とともに不意に消滅した驚・恐・凶の年が去った。時間がたつこと、そしてものごとは変わるということほど確実なことはない。

いよいよ今年から団塊の世代の大集団が高齢者の仲間入りをする。ひとは年をとれば、老い、弱る。弱って動けなくなれば、“人の支え”が必要となり、そして死ぬ。例外はない。違いは動けない期間が短いか長いか、“人の支え”があるかないかだけだ。良い人生だったかどうかは終わり方次第である。

これまでの制度は、八十歳を超えて長生きする高齢者がこんなにも多くなることを想定してつくられてはいないから、このままだと財源不足で制度が壊れ、路頭に迷う高齢者が増える。

しかし、これ以上の保険料や税金の負担を国民に強いると選挙で負けるから、手詰まりになり、国が金を借りて不足分を補ってきた。今では、借金が一千兆円を超えているらしい。借りた金を返さず、借金を増やし続けると国も破綻する。国が破綻すれば、高齢者だけでなく全員が路頭に迷うことになるだろう。

専門家も政治家も誰もが、相当に危ない状況だと言うが、どうすればよいのか。最も簡単な方法は負担の元凶である高齢者を切り捨てることだ、だが、そんなことができるか。できないなら、痛みを覚悟して制度をつくり替え、社会を活性化するしかない。

年頭の賀詞交換会のあいさつで、野田首相が「政局ではなく大局に立って・・・」と与野党の幹部に呼びかけた。まったくその通りだと共感する反面、こんなことは首相が公の場でお願いすることかとしらけてしまう。民主主義では、違った考え方を代表する議員が、徒党を組んで権力闘争を行うのは健全なことだ。だが、誰の、何のための政争か、目的を見失ってまでやるのには、あきれるばかりである。

大局に立った議論とは、日本にとって最も良い選択は何かを決めるために行うものだが、こんな良識は政治の世界ではガキのたわ言なのだろうか。

変化を読んで、変化を創ることができるのは人間だけだ。人間には知性があり、技術があり、良心がある。変化を良くも悪くもすることができるのである。大きな転換点にあって国がどうなるのか、国をどうするのかは、この人間に備わった力がどう使われるかで決まる。歴史が示すとおりである。

(中日新聞 2012年1月27日掲載「長寿の国を診る」より)