医療とは病気によって生ずる痛みや苦しみを除く行為である。痛みの原因も解らず、苦痛をとるには、祈るしかなかった時代から医療はあったが、病気には原因があり、原因を除くことによって回復できるという技術を人類が手にしたのは二十世紀に入ってからである。

科学という魔法の杖を見つけ、これを駆使することで、劇的な効果を得ることに成功した。その象徴は感染症である。それまでは高い致死率によって恐れられていたペストやコレラといった伝染病を制圧した。この成功体験による思いこみは中途半端ではなかった。

科学なら何でも解決できるのではないか、医学が進歩すれば、どんな病気も治せるに違いない、そのためには医者は完全治癒を目指し一分一秒でも長生きできるように努力しなければならない、と医学界が考えてしまった。

私たちが学んだ医療もそういう医療で、その後の科学技術を基礎にした医療の進歩は驚異的である。今では、ちょっとした病院なら、最新の診断治療機器であふれているが、これらがどれほど命を救い、病気を治すのに貢献したかは言うまでもない。

だが、いくら科学や技術が進歩しても完全はない。現場の医療はいつも今をどうするかだ。この病気は治せないから、治す技術ができるまで待てというわけにはゆかない。そして、その時がくれば人は死ぬのである。治すことだけを追求していていいのか。こんな判断はいつもあったが、知らぬ顔をされてきた。

しかも、軽視してきたのは医療界だけではない。広辞苑を見てください。「医療」の項には「医術で病気を治すこと」としか記されていない。他のどの辞書でも皆同じだ。日本中が医療に期待したのは治すことだったのである。

このことが医療崩壊に関係していると言えば言い過ぎだろうか。病院には専門医しかいないが、専門医とは治す専門の医者のことで、特定の病気を治す技術には優れていても専門以外のことは弱い。だから、まずは何でも診てくれる総合医のかかりつけ医に相談しましょう、といくら言ってもだめで、最初から専門医の受診を求める。

医療が治すものなら、治せる医者が良い医者で良い医者を求めて何が悪いということだろう。救急外来がその必要のない人で溢れれば、救急医療だって壊れるわけである。

(中日新聞 2009年4月28日掲載「長寿の国を診る」より)