超高齢社会に向かって、その先頭を走るわが国の将来はどうなるのか。長生きをして良かったと言えるような社会の現実は可能なのか。

私は高齢社会が明るい社会になるか、暗い社会になるかは、高齢者の異常な死が増えるかどうかを見ればよく分かると述べてきた。二十日の中日新聞一面トップの「介護殺人、心中四百件」という見出しは、いやな予感を強くさせる。別の紙面では、介護心中は少なくともこれだけあるとも示している。

翌日の朝刊は、虐待による高齢者の死について載せている。虐待の実態も、表に出にくく、正確さに欠けるところがあるとしながらも、その数は増えていると結論づけている。

ひとの死には正常な死と異常な死があり、正常な死とは病気による死か、老衰による死である。異常な死とは事故死、殺人、自殺、心中など、病死や老衰以外のすべての死である。

今、高齢者の異常な死が確実に増えている。歴史をみれば、異常な死が異様に増えた例ならいくらでもある。典型は戦争で、中世の魔女狩りも、ホロコーストもそうであり、科学技術や環境の変化が大きく関与している核や環境汚染による死も異常な死といってよいだろう。

このようにみてくると、異常な死はいつでもあり、その時代の特徴をよく表しているともいえる。そして、これらの大量の死は、常にその時代の権力や宗教の論理や価値観によって、時に美化され、そうでなくても不可抗力なこととして正当化されてきた。だが、振り返ってみれば、異常な死の多くは、天災としかいいようがないものを除けば、むしろ人類の汚点とされてきたのではなかったか。

さて、高齢社会である。この先例のない社会がかつてみられなかった異常な死を生み始めている。異常な死が多い高齢社会を、不可抗力とかやむを得ないというのだろうか。不可抗力とは、人力ではどうにもならない天災か、打つべき手を打っても避けられなかった受難の場合に使う言葉である。

(中日新聞 2009年11月27日掲載「長寿の国を診る」より)