殺すとは意図して人を死に至らせることだ。医者に殺されるとか、病院に殺されるとか、こんな本がよく売れているらしいが、病苦に悩む患者さんを、殺そうとする医師がどこにいるだろう。著者が医師であることを思うと、同業にある者として悲しく恥ずかしくなる。

紀元前四世紀、ヒポクラテスは「医師として、患者に害を与えるようなことは決してしない」と誓ったが、意図して相手に不利益や害を与えてはいけないのは、医療に限らない。どんな職業においても基本的な倫理だ。これが信じられないなら、何も信じられないから医療どころか社会が成り立たなくなる。

医療とは不確実なものである。患者さんを前にして医師が知りたいのは、この人にとっての確実な治療法である。五年生存率70%と言われても、30%は死ぬから、知りたいのは、確実に70%に入れる治療法である。患者さんにとってはもっと切実である。だが、最も知りたいことは誰にも分からない。

医療界では、膨大な疾患ごとのデータを集積して重症度と治療内容、そして予後を分析し、その時点におけるもっとも良い治療によって得られた成績をもとに、さらに治療成績を改善するために新しい治療法の開発に努めてきた。

一九四〇年代にはまだ五十台であった平均寿命が、たかだか半世紀で八十歳以上にまでになった背景に、こうした医療による貢献があったことを軽視してはならないと思う。

医療の歴史とは、治療法のなかったところから、成功率を10%に、30%に、50%に、そして70%へと、不可能を可能にし、治療による不確実性をいかに小さなものにしてきたかという歴史でもあるが、いつでも未完成であり不確実性からは解放されないのである。

だから、つらいことだが、どうしても一定の確率でよくない結果が生まれる。こんな結果になるのだったら、やらなければよかった、といったジレンマやトラブルは、医療が不確実である限り避けられない。

そのことを最も分かっているはずの医師が、この医療のどうにもならない隙を突いて、殺されるなどという穏やかではない言葉を使う。そんなことまでして医療を否定して、不安をあおる意図がどこにあるのか。いくら批判があるにしても、行き過ぎではないかと思う。

(中日新聞 2013年11月29日掲載「長寿の国を診る」より)