今回の原発災害では、巨大化した技術が制御不能になったときの恐怖だけでなく、その代償がとてつもなく大きいことを思い知らされた。技術は限りなく進歩するが、いつも未完成で不確実である。だが、技術のない生活はありえないから、技術の利用と制御のあり方は、国の存亡にかかわることなのである。

松尾稔科学技術交流財団理事長(元名古屋大学長、土木工学)は、二十年以上も前からこうした事態を見切っていたかのように、技術と行政、専門家、市民の役割と責任について、警告して提言し腐心されていた。

「『モノ』には、たとえそこにその時点での最善が尽くされていたとしても、『絶対』ということはありえない」から、「技術の結果に対してあらゆる可能性を認め、謙虚な態度で臨むことが、技術にたずさわる『人間』としての責務である」「不幸にして損傷が現実になった場合にも、それが致命的損傷にならないよう、並列的にあらゆる可能な準備、バックアップを用意しておく」(可能性の認知、基礎工1988.3)と述べ、社会が技術を受け入れるということは利便性のみならず危険性をも受け入れることで、その意思決定の在り方につき、「社会との対話なしに、行政側が我々学者や技術者も含めた専門家集団だけでほとんどすべてを決定して」いる慣習を否と切り捨て、一方で「お上が決めたことだから、責任も全部とってもらいたい」という市民側の態度も甘えと断じ、「行政の独善・独断と市民側の甘えの構造を、両者合意のもとで断ち切らないと災害国日本は立ち行かない」と憂慮されてきた。そして、「安全は市民のものであって、専門家のものではない。いかなる水準を持って安全と考えるかは、市民の意見をベースにしつつ、専門家の知識を併せて、“市民一人ひとりではできない判断レベルでの”意思決定がなされるべき」で、「“絶対に事故は起こらないか”とか“絶対安全である”という、反対派と推進派の不毛の問答、非現実的な儀式の繰返しから早く脱却し」、「適正な防災水準と責任の所在について社会的合意形成を図っていく以外に民主国家としての道はない」と、我が国あるべき姿について言及されている(道路1997-2)。これが専門家の知識とか見識というものだと思う。

(中日新聞 2011年6月30日掲載「長寿の国を診る」より)