今月十一日にロンドンで初の主要国(G8)認知症サミットが開催された。世界一の高齢国である日本の動向に注目が集まったが、世界一の高齢国は世界一認知症の人の多い国でもある。

最も新しい報告では、わが国の六十五歳以上の15%、四百六十二万人が認知症を有しており、認知症予備軍を加えると八百万人を超える。認知症は高齢になるほど、その発症頻度が高まり、八十歳以上では40%以上の人が発症する、まさに国民病である。

長生きは人類が求めたものなら、その結果生ずるあらゆる問題は、自ら引き受けるしかないが、認知症が難しいのは、これまで人類が築きあげてきたやり方では、社会の秩序が保てないことである。

認知症は、人が社会で共存していくために欠かせないルールや規範を逸脱した行動を生む。従って認知症の人が社会のなかで、その人らしく生きていくためには、社会全体の理解と支援が欠かせない。

人が生きていくには、リスクから逃れられないが、高齢社会には高齢社会に特有のリスクがあり、認知症もその1つだ。厚生労働省の認知症対策に、精神科病院に入院が必要な状態像の明確化という課題があるが、その入院基準を考える研究会の座長が私である。

そこで、二〇〇七年の共和駅構内で起きた認知症の人の死亡事故について、JR側から起こされた訴訟でJR側の完全勝訴となったことが話題となった。「認知症の人の家族の会」はこの判決に怒りを隠さない。精神科病院協会の委員からは「認知症の人の精神科の病院への入院を、できるだけ短くするというのが国の方針のようだが、一方で認知症の人が起こしたことは全て当人と家族の責任というのはどういうことか」という趣旨の発言もあった。

JR側からこの事故を見ればどうなるのか。勝訴したからといって、まるで悪いことをしたかのように扱われているというのはどういうことか。確かに認知症の人の責任能力や家族の世話にも限度があることは、理解できないわけではないが、過失責任を問われるのはたまったものではない。では生じた損害は誰が引き受けるのか。

認知症となっても、その人がその人らしく最期まで住み慣れたところで、人生を全うできるような社会をと言うなら、そこから生じるリスクもセットで社会が引き受けなければならないだろう。

(中日新聞 2013年12月27日掲載「長寿の国を診る」より)