まさか、あの米国アカデミー賞をとってしまうとは。映画「おくりびと」が大評判である。不覚にも、私は映画を観(み)るまで、納棺師という職業があることも、そのような職業が現存することも知らなかった。不覚にもとは、そんなことも知らずに、人の死に最も近いところにいる医師を、よくもまあ四十年もやってこられたものだとあきれているのである。

死は誰にも訪れる、これほど平等で確実なことはない。にもかかわらず、死は不吉で嫌悪される最たるものである。だから、死にかかわる職業は忌み嫌われる。なのに、死を扱ったこの映画が、こんなに注目されるのは一体何なのか。人を安らかにし、苦しめもする喜び、悲しみ、憎しみといった心の動きは、人が一人では生きてゆくことができないという証しのようなものである。

この証しは、人が死ぬその時に、うめきや叫びのように、おくる人の中からあふれ出てくるが、それが共感を生むのは、国や人種、宗教の違いを越えた人間に共通のものだからだろう。「おくりびと」は、人の死を通して、切っても切れない人と人との関係を浮かび上がらせ、人が生きるとはどういうことかを描いており、死や納棺師を美化しているものではない。

人間とは、どうも生きる意味とは何かを問い続けるもののようである。生と死は連続だから、生とは何か、死とは何かが分からなければ生も死も分からないが、死を見つめることによって確実に分かることもある。死について考えている私は、今、確かに生きているという事実である。

山崎努さんが、ふぐの白子を焼きながら、本木雅弘さんに言うせりふには力がぬけた。「人間、死なない限り、食わなきゃいかんのだよなー、どうだ旨(うま)いだろう、こういう旨いものがあるから困るんだよなー」。

人は何のために生きるのか、食うために生きるのではないとは、若いころに悩んだことだ。確たる答えを持たぬまま過ぎ、すでに六十歳を超えてしまったが、あと死ぬまでに何度、食事をする機会があるだろうか。その回数は確実に減ってゆくが、この先、ああ、旨かったと思うことも、きっとあるだろう。そう思える、それだけでも生きている意味も価値もあると今なら断言できる。先輩、御同輩、そうですよねー。

(中日新聞 2009年3月31日掲載「長寿の国を診る」より)