わが国は、戦後の何もないところから、国を復興させ、社会システムを再構築してきた。医療については、欧米の科学的な医学・医療に学び、病院が足りなければ病院を、医師が足りなければ医師をというように、足らないものを補うというやり方で整備を進め、大きな成果を挙げた。

その医療が、急速な高齢化の中で、今までのあり方では通用しなくなってきている。そうならできるだけ早く変えなければならないのに、切り替えがうまくゆかない。

どうすべきなのか。そもそも医療は時代によって変わるものである。人口構造の変化、技術の進歩など、変わる理由ならいくつもあるから、その変化を早くつかんで、それに合わせなければならない。

第二に、医療に限らないが、供給体制は需要に合わせて整えなければならない。結核が猛威を振るった時代では、結核を診る医師が求められた。医師の数に合わせて結核が増減するわけではない。

第三に、際限なく医療資源を投入することはできないから、わが国はどのような医療を目指すのか、優先順位を決めなければならない。例えば百歳になっても病気と徹底的に闘う医療を追求するのか、しないのか、といった基本的な考え方について合意を得たうえで、実現可能な医療は何かを考えなければならない。

第四に、医療の公共性には十分に配慮すべきであり、第五に、ヒト、モノ、カネの全体について、総合的に整備計画を立てて実行しなければならない。

医師の養成を大学に任せる限り、大学の価値観に合った医師が養成されるが、必要なのは国民が必要とする医師であり、どちらが優先されるかは自明である。公共財である医療資源は、総合計画のもとに準備し配置を考えるべきである。

以上、述べてきたことは当たり前のことである。問題は、当たり前がなぜ当たり前にならないのかにある。Aに聞けばBに問題がある、Bに問えばCが間違っている、Cに聞けばAの責任だ、となりそうだが、A、B、Cが誰かは言わない。

組織が熟すと、制度が疲労して腐敗が始まり、自己防衛と既得権益の保持というおなじみの構図が浮かんでくるが、結局は地獄を見るまで変わらないということだろうか。そうなれば事が事だけに「困ったことだ」では済まないだろう。

(中日新聞 2010年11月30日掲載「長寿の国を診る」より)