何でこんなに元気なんだろうと不思議なお年寄りがいるかと思えば、この年でなぜ、と考え込んでしまうようなお年寄りがいる。ある程度の年齢を超えると年齢でお年寄りを区別することは難しい。統計によれば、六十五歳以上の方の80%以上が元気であるという。これを強調する人は、だから、日本の今後の高齢社会は明るい社会になるという文脈に結びつけたいらしいが、私たちのように医療の場に身を置いている者には現実感が伴わない。

何度もくり返すが、昔から高齢者はいたのに、高齢者が増えると何が問題なのか。増えすぎると、個人的問題ではすまなくなり社会的問題になるからである。では、増えすぎるとなぜ、社会的問題になるのか。高齢者には年金も医療費も介護費もとお金がかかる、そして手間もかかるからである。寝たきりになれば、その大変さは誰にも分かるが、身体が元気でもまともに頭の回路が働かなければ、これも大変なのである。おまけに、ほとんどの人は亡くなる前には人の世話にならなければならない。ずーっと元気で、死ぬ時はコロッと逝ってくれるお年寄りなら超エリート、寝たきり一カ月以内なら優等生である。よい思い出がいっぱいで皆に心から惜しまれて旅立つことができる期間はこれくらいまでである。

これを超えると、雰囲気が悪くなってくる。要するに、介護される側はもちろん、する側も行き場も逃げ場もなくなって追いつめられてくるのである。

「長生きを喜べる社会の構築」と小泉首相は昨年十月の所信表明で述べたが、素晴らしいメッセージである。感動して中身を熟読したが、どんな社会を目指すのか、具体的な姿がさっぱり分からない。今のままゆけば、お金も手間も限界が見えているが、お年寄りを見捨てることができるか、さりとて共倒れするわけにもゆかないだろう。人でなしにならず、共倒れもしない、どんな長生きを喜べる社会をつくればよいのか。

終戦後六十年、その最大の成果は個の解放であろう。だが、個の権利と全体の調和とはどうあるべきか、頭の痛いテーマである。個の主張が強過ぎれば全体の調和が崩れる。「これが見えぬか人権様である」。今はあちらでもこちらでも人権様があふれ、人権の御紋の印籠(いんろう)が簡単に出てくるが、人のお世話にならなければならないお年寄りには印籠を出すこともできない。弱者を守るはずの人権様がもっと弱い弱者をいじめているようなことはないだろうか。

高齢者が増えて何が問題なのか。人の生命、生活にかかわる医療・介護・福祉は、人の生存の基本的な部分だが、人は社会のなかで認められてこそ人なのである。人を大切にする高齢社会なら、この基礎部分を頑丈なものにしたうえで、さらにその上を目指さなければならない。

(中日新聞 2005年4月29日掲載「長寿の国を診る」より)