「高齢者が多くなると一体何が問題なんですか。きれいごとはやめましょうよ。いつの世も大切にされて幸せな年寄りもいただろうけど、多くの年寄りは孤独で厄介もの扱いされていたんじゃないですか」。五十一歳の男性、酒の席でしか言えないとわきまえての発言だろうが、八十五歳の母親の介護に妻がへとへと、家庭は異常な緊張状態にあるらしい。追い込まれるとどうなるのか。“介護疲れで母親を殺害”などという新聞のタイトルが頭に浮かぶ。

「いやー、どうなるかと思った。もう限界だったなー。死んでくれて良かった」。ぼけてしまった父親が入退院を繰り返し、振り回され続けていた友人の話である。

こんな状況を裏付けるデータならいくつもある。厚生労働省がまとめた「家庭内における高齢者虐待に関する調査」では、調査対象者の10.9%が「生命にかかわる危険な状態」の虐待を受けていた(平成十六年九月二日中日新聞社説)。平成十五年の自殺者は三万四千四百二十七人、うち六十歳以上の高齢者は一万千五百二十九人(警察庁調べ)。毎日三十人以上の高齢者が自死している。

平均寿命世界一、世界最高のスピードで高齢社会(人口の14%が六十五歳以上)を達成、世界で最初に超高齢社会(人口の20%が六十五歳以上)に突入するのは確実。高齢者が増えるのは豊かな国にしかないことだから、わが国は豊かな国である。地球上では、毎年二千万人が飢えで死んでいるというのに、東京では一日に数百万食が捨てられているという。こんな豊かな国があろうか。

それなのに、年寄りが増えて何が問題だって。自分たちの責任で自分たちが選んでつくった社会じゃないのか。長生きになればなるほど老人は増える、年をとれば誰もが衰える、死ぬときには人の世話にならなきゃいかん、そんなことは当たり前のことだろう。何を今更。実に勝手のよい話だが、お金でつくった豊かさは、お金だけでは精算できない負債を生んだ。どうやって借りを返すのか、事態は深刻である。お年寄りがぼけて介護が必要になると、本人はもちろん、巻き込まれた人も生活もおかしくなる。いつまで続くのか、希望も出口も見えない状況に、どこまでも耐えろというには限りがある。それを人権とか尊厳とか、倫理や理想で責めたらどうなるか、怖い話だ。そして、いつ自分がそうなるのか、ひとごとではないことに皆が気付き始めているのである。

国を挙げてつくりあげた豊かさなら、その負の部分についても国を挙げて帳尻を合わせなければいけない。お年寄りの世話に限界があるならきちんと認めて、正面から向き合う、そして、皆で分け合うしかない。逃げて、押し付け合いなどを始めたら、この国の将来はないと思う。

どんな高齢社会をつくるのか。この国に生まれてきて良かったと死んでゆける、そんな国である。

(中日新聞 2005年3月29日掲載「長寿の国を診る」より)