受けられて当たり前のことが受けられないと、人は怒る。とりわけ肉体の苦痛に伴う不安が放置されると怒りは心頭に発する。ましてや、結果が悪ければ周囲も含めて非難は集中する。人が苦しんでいるとき、医療が受けられるのは当たり前ではないか、と誰もが思うだろう。だが、どうして当たり前なのか。

資源は有限である。社会資源も有限である限り、どんな要求でも、それをすべて満たすことができないのはやむを得ない。これも当たり前である。しかし、この当たり前は、人の生命を救うのに不備があってはならないという当たり前と対立する。

例によって、産婦人科で起こったたらい回し事件を見てみよう。あの後、決してあってはならないことだ、どうなくすかと協議が進んでいる。「病院では絶対に断らないようにすることを義務化する」という意見に、「そんなことをしたら、医者は病院を逃げ出してもっと悪くなる」と議論は迷走している。

どちらももっともな意見だが、これでは、制度と倫理の対立である。もともと、制度は全体の利益を優先させる外的な規範で、倫理は医療人の行動を規定する内的な規範だから、お互いに補完し合うものでなければならない。

どんな患者が何人来るかは予測できない。だが、どんな場合でも例外なく受け入れますというのが救急医療のあるべき姿だ。だからといって、もっとも厳しい状況を想定して人も金も注ぎ込んでいたら病院は成り立たない。

だから、平均的な救急患者の受診数を想定して整備する。そうすると、時には食事もとれず、一睡もできずという日もでてくる。そんな時でも「たとえどんなに忙しくても、どんなやりくりをしてでも、きちんと診させて頂きます」と努めるのが、医療人の倫理である。

他でもない、命の話である。誰の命も大切で、公平に医療を受ける権利がある。だからどんな理由にせよ、病院から断られて「運が悪かった」と済ませるわけには行かない。完璧(かんぺき)な制度というものはないが、それでも完全を目指すには、良い制度をつくってうまく運用するしかないのである。

本当に守らねばならないものは何か。ゆとりのない時に、誰もが権利と要求ばかりを主張すれば、大きなものを失うことになる。これも当たり前のことである。

(中日新聞 2009年2月27日掲載「長寿の国を診る」より)