一審の判決が逆転して、「拘束しなければ転倒してけがをする危険性や切迫性は認められず、病院側の処理は違法」となった名古屋高裁の判決を不服として、病院側が最高裁へ上告した。人をいわれもなく拘束することなど許されるわけがない、こんなことは誰もが分かっている。

唯一許されるのは、安全の確保の為には、身体の拘束が避けられない場合だけである。これも言葉ではよく理解できる。問題は拘束される側にとって、こんな不快なことはなく、しかも本当に拘束が必要かどうかの判断が簡単ではないことだ。

「母の悔しさを晴らすことができた、必要のない拘束に苦しむ人の役にたてた」という高裁の判決後の家族のコメントからは、病院側のやり方に納得できず、許し難い憤りを感じていることが分かる。とことん争うと決めた病院側は、この判決を認めることは、専門家としての存在そのものが否定されることだぐらいに思い詰めているのではないか。

裁判は時に残酷である。白か黒か、勝った負けたでくくってしまうから、白と黒の間の部分が見えにくいが、本当のことはこの間にあると思う。もしも、拘束を軽く考え、安易に行って何が悪いというなら、問答は無用である。そんな病院や医療人ならやめてもらった方がよい。

あのときどうするのが患者にとって最善の方法だったのか。悩ましく、苦しい決断であるほど、家族を含めた関係者の理解や納得が求められる。拘束せざるを得ないという判断は、限られた人やお金という条件のなかでの、苦渋の選択だったはずだ。スタッフや家族とはどんな話し合いが行われたのか。こんな時に、お互いが信頼関係を保つには、理を尽くした誠実な説明と対応しかないだろう。

外科手術がその典型だが、医療では、診断、治療という大義のもとに人を裸にして拘束し、身体を傷つける。人を傷つけ苦しめても、結果が良ければまだ救われるが、結果が悪く理解や信頼がずれ始めるとどうなるか。苦しみは不信や恨みを生み、我慢は限界を超える。

そして、勝ち負けという関係や結果からは更に大きな不信と憎しみの連鎖が生まれ、医療現場から優しさが消えてゆく。こんなところからも医療崩壊は進む。悲しいことである。

(中日新聞 2008年9月30日掲載「長寿の国を診る」より)