愛・地球をテーマにした愛知万博が終わった。計画の段階から、もめにもめて不安視されていたが、入場者数千五百万人の予定が二千二百万人を超え、大成功といってよいだろう。私は行こうか行くまいかと迷っていたのに、九月になって二回訪れた。持続可能な開発(サステイナブルデベロップメント)をはじめ「持続可能な」という言葉が至るところで見られ、これだけでも地球環境の悪化の深刻度が想像された。

もともとサステイナブルという言葉は、一九八七年ノルウェーのブルントラント首相が、国連の「環境と開発に関する世界委員会」の報告書に使ったのが最初である。既に、そのころから地球や自然環境に対する問題が国際レベルで議論されるようになっていたのである。

どの国でも進歩・発展は国益であり、正義である。科学技術の進歩、産業の振興は、国民の安全と財産を守るための必要条件であり、当然、政府も産業界も科学の進歩・新技術の開発に水をさすようなことは認めたくないし、認めようとしない。だから私は、愛・地球・自然環境を守れなどと言ってはいるが、技術開発目的の交流が中心の、結局は、お祭り騒ぎにすぎないのではないか、と考えていた。だが、実際に回ってみると、このまま手をこまねいていると、地球は危ないぞというメッセージを本気で発信している政府館や企業館が多くあり、パビリオン内で胸の熱くなることがしばしばあった。

考えるまでもなく、ものは全て有限である。今値段の高騰で困っているガソリン(石油)は、最も有効なエネルギー源として使用され続けてきたが、その功罪についての議論が続いている。石油を開発して使い始めてからたったの百年である。地球の歴史が四十五億年、人類の歴史が六百万年というが、この百年、二百年の間の地球上の変化をどう考えればよいのか。人口は一九六〇年の三十億が、今では六十五億で、二〇五〇年には九十億を超えるという。

現在既に毎年二千万人が飢えで死亡しているというが、九十億の人間がこの地球上に生存が可能かどうか、明らかに限界を超えているという説がある。そして、わが国が先頭を切って突入した人類が経験したことのない超高齢社会では、人が人らしく生きるとはどういうことか、きちんと答えを出せと迫られている。地球・自然と人間・社会、科学・技術と地球・自然、人間・社会と科学・技術、これらのそれぞれの関係にどのような答えを出すのか。万博のフランス館で見た「地球は親から譲り受けたものではなく、子供から借りたもの」というサンテグジュペリの言葉が忘れられない。自信と誇りをもって次の世代に継承できるどんな高齢社会を創るのか。私たちの義務である。

(中日新聞 2005年10月30日掲載「長寿の国を診る」より)