人は生まれ、育ち、成人となり老い、そして死ぬ。誰もがそうである。生きていれば人は病む、病めば医療を必要とする。医療とは、人の病苦を和らげ取り除く行為である。薬も技術も乏しかったころの医療は、身体の消耗を極力少なくするように環境を整え、自然治癒力に頼り、あとは神や仏に祈って回復を待った。子供の医療、若者の医療、高齢者の医療に区別があったわけではない。

大きく変わったのは、近代科学が病気の原因を特定し、それを抑えることのできる薬剤や方法を発明して、それまで癒やせなかった病気や救えなかった命を科学・技術によって癒やし、救うことができると考えるようになってからである。科学に頼ればあらゆる病気は克服できるはずと考えられるようになった。それからは、医療の目標は完全治療、医師の役割は救命延命となり、一分一秒でも長生きさせることが使命となった。

科学技術の進歩が、このような医療をさらに加速させた。病院は、ものも人も集中して重装備化し、資本集約型の効率を重んずる治療の場所となった。この背景には、機器も技術も高度化し、高価になり医療費がかかってどうにもならなくなってきたこともある。そして、病院では早期治療、早期退院を目指すことばかり言うようになった。

こうなると病院は癒やしの場ではなく、修理工場のようであり、お年寄りには居づらいところになる。病気であろうがなかろうが、年をとった先に死があることは、誰もが分かっているのに、八十歳になっても九十歳になっても治療の場所である病院では、死を口に出すのはタブーである。

さて、八十五歳でがんと診断された、さあどうする。年など関係ない、最先端の技術を駆使して可能性のある限り、徹底的に治療をする。三十年前には六十歳の手術に苦闘していたのに、今では八十歳の人に安全に手術ができる、百歳の人にも安全にできるようにするのが進歩というものだろう。

科学技術の進歩とは、そういうものである、それがあって医療もここまで来た。今までは、こんな考え方が主流であった。けれでも、もう手術は結構である。十分に悔いなく生きてきた、自分の生活を優先させてもらう。勝手かもしれないが、治療は完全でなくてもよいから、痛みだけは何とかしてほしい、寝たきりにならないようにだけしてほしい。元気なときに聞けば多くの人はこう答えるが本当はどうなのだろう。

私は、高齢者の医療は何かと問われて、救命、延命、完全治癒、社会復帰は第一目標ではない、むしろQOL(生活の質)を落とさないことと、その時が来たら、いかに納得して気持ちよく死を迎えてもらうか、という医療ではないかと言って、ひんしゅくを買ったが、今でもこの考えは変わらないのである。

(中日新聞 2005年9月29日掲載「長寿の国を診る」より)