一九六〇年代に私たちが大学で受けた教育は、科学としての医学医療である。私は卒業以来、腎移植を行ってきた。移植医療とは悪くなった臓器をよい臓器と取り換え、自己以外を排除する免疫の働きを薬剤で制御して、移植された他人の臓器を生着させようという医療である。悪くなった部品を取り換える、免疫という自分以外のものを拒絶するメカニズムを探りそこを抑える。これは、普遍性、論理性、客観性を原理とする科学を実現する医療の典型であろう。医療は科学といってもここまで科学で説明できる医療は多くはない。

科学で説明できないとしたらどうするのか、答えは決まっていた。いかに科学にするかである。科学にできないようなものは並以下の軽蔑の対象になる。統計学が猛威を振るい出したのは、そのころからである。医学医療のデータは全て統計によって処理、検定にかけられ、ある治療法に価値があるかどうかは統計的に意味があるかどうかと同じ意味になった。

例えばAという治療とBという治療の効果を比較するために同じ条件の患者を二群に分けて、それぞれの治療を行ったところ、Aでは70%に効いたがBでは50%であった。統計的に検証を行ったところ、これは有意差をもってAの治療が優れている、従ってAという治療法を採用するのがよいとなる。医療の現場では目の前の患者さんの治療法を選択する時に根拠のある指標がないと困る。だが、これは医師の側の理屈である。治療を受ける側にしてみれば、自分の治療が成功するのか失敗するのかがすべてであり、有効率が70%だろうが50%だろうが確率などどうでもよい。

自然科学とはずい分違うが、こんな科学でも医療で成立するには前提がある。ひとの正常について共通の了解がなければならない。肝機能正常、心電図正常というあれである。医療における科学の歴史は正常を数値であらわす歴史でもある。この正常はしかし障害や病気がない成熟した成人を対象に考えられた正常である。要するにひとが生まれ成人し年をとってゆくというそれぞれの過程に合わせて変えてゆくというものではない。

もうお分かりと思うが、老いの過程の正常はわからないのである。正常がわからなければ異常がわからないのは当然である。おまけにひとは同じように老化が進むわけではない、そして、お年寄りの病状は非定型で個別的で多様なのが特徴だと強調されるとどうなるのか、科学、科学で鍛えられてきた頭とやり方で高齢者医療に向かうとちょっと危ないんではないか。こんな疑問が出ても当然であり、そしてその通りなのである。成人を対象にした急性期型の医療と、高齢者を対象とした医療とを同じように扱うことはできないのである。

(中日新聞 2005年8月28日掲載「長寿の国を診る」より)