高齢者の間で写経がブームだという。若い人で写経をする人は少なくないと思う。いつか、二十代の男性と話していたら“シャキョウ”って何だと聞かれた。 何故 ( なぜ ) 、年をとると写経をしたくなるのか、気持ちが落ち着くからである。お経は、通夜、葬式か、○回忌といった法事の時に耳にするぐらいだが、いくら耳をすませても何を言っているのか分からない。分からなくても、ありがたそうにだけはしていなければいけないから、若いころはたまらなかった。それが年をとるにつれて、そうでもなくなってくる。分からないことに変わりはなくても、ありがたいのが、ふりをしなくても、そう思えてくるのである。

写経と言えば、般若心経である。二百七十六文字とか二百六十二文字とか、字数については諸説があるが、いずれにしても最も短いお経であり、どの説明にも、仏教の神髄を説く、宗派に偏ることのない唯一のお経とある。ちなみに、私は般若心経、二百六十二文字派である。理由は…イチローの年間安打数に関係あり、としておこう。

実は、私も十年ほど前に写経をやったことがある。思い返せば、人生の選択で悩みのあったときである。二百六十二文字を ( ただ ) 、書き写す、書き写しながら頭のなかで音読する。ひとの気配のないときには、声に出して読む。意味はさっぱり分からないが、ありがたいような気持ちになってくる。私は一日に二、三枚を百枚まで続けたが、それだけでも二百六十二文字は身体に残る。法事などで般若心経が出てくると後を追って口ずさんでいるが、こうなるとまたありがたさが、ちょっと違ってくる。

何枚も写経をしていると、意味を知りたくなる。形あるものには形はなく、形ないものには形がある、生は死で、死は生である、という世界だから、ちょっとやそっとでは何ともならない。解説書なら山のようにあるから、四、五冊と格闘すると多少分かったような気になるが、果たしてどこまで分かったか。居直っているわけではないが、分かるのは 所詮 ( しょせん ) 、無理だから、お経が分かっても分からなくてもどちらでもいいと、私は思っている。二千年以上も前からひととは何か、生とは何か、老いとは何か、死とは何かを命懸けで考えてきた人たちが到達したところだ。そんな人たちが、この世には人の知恵や努力を超えていること、どうにもできないことがあるが、そのことだけ分かれば、あとは「心配せんでいい」と言っているからである。お経には「心配せんでいい」が詰まっていることを、昔から人々はよく知っていたのだと思う。

そう考えれば、お経がありがたいのはあたり前だ、というのが私の勝手な解釈である。朝起きて、やることが何もない、時間をどう使ってよいか分からない、これはつらくて苦痛だ。そんなときに写経をやってみるのも、いいのではないだろうか。

(中日新聞 2008年1月31日掲載「長寿の国を診る」より)