終末期医療のあり方について、厚生労働省からガイドラインが報告された。「まあ、あんなものだろう」から「あれでは何の解決にもならない」といった手厳しい批判までさまざまだが、これで、今後の終末期医療での混乱は随分と避けられるだろう、といった評価はないようだ。

死には普通の死と異常な死がある。普通の死とは、病死か老衰であり、異常な死とは事故死、自殺等である。どんな死を迎えたいかと問えば、普通に自然に死にたい、が大多数の答えである。自殺、孤独死、殺人といった異常な死はよくわかるが、自然に死ぬとはどういうことか。昔は病死や老衰死に説明など必要なかったのに、今では普通の自然な死が何か、わからない。

死を経験した人に死は語れない、生きている人は死を経験したことがない。だから、自然の死とは何か、知るには本当の死を見るしかない。だが、死は病院にあって自宅にはないから、死が生活の中から消えてしまった。わからなくて当たり前である。

医学は科学だと誇るようになって、医療の目標は、救命・延命となった。科学としての医学は、生物としての人間をみるから、人の尊厳よりも生の延長に価値を置く。病院は最高の技術と先端の機器を使ってそれを実現するところである。呼吸が止まり心臓が止まるその時まで延命に尽力する。臨終まで家族に病室から出ていただくのはそのせいである。

今、日本では、一年間に百十万人の方が亡くなっている。その80%が病院というから、一日に二千人以上の方が病院で亡くなる。“自然に”亡くなられた方はどれほどいるのだろうか。

六十歳を超えてから、同年齢の者が集まると、衰え、病気、死の話は三点セットである。なぜなのだろう、そこで調子の悪い者ほど威張っている。自然がよい、ピンピンコロリでゆけたらなあ。これに異論を唱えるものはない、痛い苦しいはいやだ、意識もなく回復の見込みもなく、ただ生かされているのもいやだ。これにも例外がない。

誰にもみとられずに一人でゆくのは怖い、寂しい、だが、周りの人に迷惑をかけるような逝き方はしたくない。誰の望みもこの程度ではないのか。人生の最期にこれ位の望みをかなえることは、それほど難しいことなのだろうか。

現実は、高齢者の死が増え続けており、二〇四〇年には百七十万人が亡くなる。独居老人、老老介護など、孤独死、介護殺人の予備軍も増え続けている。世界で一番の高齢大国となったわが国が、どんな社会を選択するのか。死はすべて個別だが平等である。

ガイドラインに沿った理想的な尊厳死の追求も大事だが、「一人では死なせない国」(小林秀資・長寿科学振興財団理事長の私信から引用)になれるかどうかに日本の品格と興亡がかかっていると思う。

(中日新聞 2007年5月31日掲載「長寿の国を診る」より)