プライバシーを守る

では、なぜこうした動きが医療分野~私が所属しているところの製薬産業も含めて~において発展してこなかったのだろう。その主因は、疾病や治療に関する情報が患者さん本人にとって、ときに極めて秘匿性の高いものであり、医学研究への活用よりも個人のプライバシーをどのように守るのか、それなくして議論は先にいけないという意見が尊重されたことによるものだといえそうだ。

もしご自身や周りの方に、決して他人には知られたくはない病気や治療歴の人がいたら、これは全く納得のいく話であるはずだ。私の病歴を、私の了解もなく使って欲しくはない。かくしてどのようにプライバシーを守るべきかという議論が落ち着くには、2017年5月から施行された改正個人情報保護法、そして次世代医療基盤法の成立を待たなければならなかったのである。

もう1つ、医療分野でのデータ活用遅滞に関する別の視点もある。患者さんのプライバシーとは別に、医療者のプライバシーとも言えようか、医療行為に関する情報をいたずらに社会にさらすのはいかがなものかという考えに基づく慎重論がそれだ。伺い聞いたところによると、医療データを活用しようという機運は1980年代にもあり、当時の厚労省が策定した保険請求データを活用しようという計画(レインボープラン)が頓挫したという“黒歴史”があったようだ。

なぜ頓挫したのかは噂話のレベルでしか知らないのだが、医療行為の不正や不当を赤裸々に暴かんとしているようだといった、甚だ誤解の含んだメディア報道と、これを受けての医療従事者からの計画への強い反発があった云々。さらに尾ひれ(?)が付いて、隣国がいま日本よりも医療データ活用が進んでいるのは、日本での計画の頓挫を尻目に、同様の模倣戦略がうまく進んだからだ云々。噂話をもっともらしくお話するのは上品ではないので、コトの真偽に関する確認検証は読者の皆さんに委ねたいと思う。

私の医療データは誰のものか

ところで、私も病気になれば病院には行くし、薬を処方してもらう。何度か入院もしている。こうした私の医療データは誰のものだろうか。プライバシーを守って欲しい、守るべきだという意見には全く賛成するものの、もし仮に自分の疾病や治療に関するデータが自分のものではないとするならば、金庫に鍵をつけて保管する権利が私にはないことになる。どうなのだろう。それとも治療にあたった医療者のものなのだろうか。

4コマ漫画で描いたところの「私の身体は私だけのものか」という問いは、哲学分野においては様々に議論されているテーマであり、ハッキリと「私だけのものだ」とするのはリバタリアニズム(自由主義)として整理されているようである。「えっ、哲学の分野では私の身体は私のものじゃないという考え方もあるの?」と思われるかもしれないが、例えばご自身の臓器の一部を誰かに販売することが許されていないことを思い返してみていただきたい。

それを許さないとする権利がなぜ、国家にあるのだろうか。これはすなわちあなたの身体の所有権があなただけに与えられているわけではない、ということにならないだろうか。リバタリアンはこれを国家の越権行為だとして批判する。これに対して我々は(感情論ではなく)論理的な反論が可能なのだろうかーー。

本コラムで哲学の議論を深掘りする気はないのでこの辺で切り上げようと思うが、現代日本の価値観ではこうしたリバタリアニズムはリベラリズム(自由主義)と対峙して、少々、自由奔放すぎるとして否定的である。つまり、私の身体は私だけのものではない。私の身体も社会の一部であり、私の医療データもまた然りだ。もちろん、私にも相応の、かなりの権利はあるはずだが、一方でそれを社会に、次世代に役立たせる「利他性」の義務も我々にはありそうだ。