情報活用と情報保護の両立

さて、プライバシー保護の尊重という課題に向き合いながら、それでもなお医療データを活用しようという情熱が消えなかったのは、先に述べた哲学的な考察にも関わるのだが、他人の医療データを使わないと救うことができない人たちへのいわば“保護”論であった。例えば、医療情報データベース基盤整備事業(MID-NET)は、医療データの活用なくして本邦における薬害を根絶することができない、というのがプロジェクトの発足動機である。

数年前、糖尿病治療薬に発がん性の疑いがある旨が欧米で騒がれたことがあったが、医薬品の処方で発がん性があるかどうかを蓄積された医療データを使わずして検証するには何百人、何千人もの人を何年、何十年とこの先観察しなければならない。社会は果たしてそこまで待てるだろうか。このように、薬の副作用かどうかを確認するにしても、副作用被害の拡大を最小限に抑えようとするにしても、医療データの活用は欠かせないものであり、そうでなければプライバシー保護の向こう側で、副作用被害を“保護”できない人たちがいるのだ。

また、そもそも医療そのものの向上は何によってもたらされたのか。それは先人たちの医療行為とその記録によるものであり、先人たちの医療行為情報に蓋をしたのでは医療の発展が止まってしまうという論調も、医療者のハートを動かしたのではないだろうか。我々の治療データを囲い込むことによって医療が発展しないとしたら、後世に対する我々のエゴとも見てとれるというわけだ。こうした問題提起に関連して印象深かったのが2015年11月に開催された第35回医療情報学連合大会の大会タイトルである。プライバシーの保護は決して疎かにしてはならない一方、医療情報も活用しなければ医療の進展はない。その双方は共存可能だというメッセージは、これから日本が進むべき方向性を「医療情報の利活用とプライバシー保護~二兎を追え~」という言葉でわかりやすく示してくれたのである。

国際競争と国際協調

さて、今後は様々なデータ同士を、匿名加工して良いと認定を受けた者(認定匿名加工業者)であれば繋げることもできるようになるのだが、これを悪用しようという「不届き者」の視点でみると、その脅威は決して小さくはない。しかしながら、私自身はそれでもなお医療データを活用すべきという考えに何ら揺らぎはない。ここまで述べてきた所有権や利他性といった哲学的視点を持ち出すまでもなく、グローバル社会の視点で見るともはや議論の余地などないとすら思えるのだ。

国際競争の視点でいえば、日本が医療データ活用を推し進めようが停止しようが、他国がどのように動くか考えてみると良い。様々なデータを繋げた国民データベース(DB)の提供や、そこから得られた貴重な知見が、これからますます日本以外から発出されていくことだろう。医療データを悪用せんとする不届き者がこの先の日本において未来永劫、現れないという楽観主義には正直なれないのだが、それを理由に医療データ活用の流れを止めてしまっては国際競争の中で取り残されてしまうのは必然だろう。

一方、国際協調の視点でも考えてみたい。先日、とある会合で伺った話ではすでに北欧では妊産婦の医療データを国家としてマネジメントしており、他国にて異常分娩や催奇形性のリスク増を疑う研究が出てくると、率先して自国のこうした医療データを使った研究で確認検証をしているとのことである。様々な産業分野で今、日本が未だ世界のリーダーであるかどうかは残念ながら疑わしくなってきている。グローバル社会の中で、日本がこうした医療研究のリーダーシップをとることができたとしたら、どんなに誇らしいことだろう。

おわりに

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いま、医療データに何が起きているのか、IT技術の進歩とプライバシー保護、所有権、利他性、グローバル社会の中での競争と協調、といった角度から眺めてみたが如何であったろうか。独りよがりな考察も含まれていたかもしれないし、全てに賛同いただきたいと強要するつもりもないのだが、読者の皆さんが現状を概観することに少しでもお役に立てたとしたら幸いである。日本ほど医療データが電子化されている国は他にない、という声も聞く。たっぷりと電子上にある医療データをそのまま放置しておくのは、Mサイズのカフェラテを残してしまうような話で、実にもったいないのだ。