研究の動機

臨床上の問い、クリニカル・クエスチョンに対して、その答えを知りたいという動機で行う研究は全くもって正当である。食欲のように純粋で、社会や患者さんへの「思いやり」に溢れている。一方で、クリニカル・クエスチョンがあるかどうかよりも、むしろ「何らかの研究を行うべき事情」が動機という場合もあるだろう。学校を卒業するために言わば“仕方なく”始める卒論のための研究もあれば、何より研究者として世に知られたい、名誉欲が第一義の動機という研究もあるだろう。私が勤務しているような製薬企業が自ら行う研究の多くは、何らかのカタチで直接的間接的に自社の医薬品の売り上げに貢献する期待があってこそ人的、経済的投資を行うことの妥当性が担保される。


ときにこうした“不純”な動機による行動を批判する声も聞こえてくるのだが、動機は何であれ、世のため人のためになる研究が実施されるのであれば大いに結構だ、と私は思う。もちろん、データのねつ造や自身に好都合となるような無茶な結果解釈などは、言語道断、悪徳行為に違いない。そうではなく、キチンと研究の文脈に沿って真実を探求するのであれば、それが大金持ちになりたいからだろうが、栄誉ある賞を受賞したいからだろうが構わない。経済学とはそもそも「経世済民」、つまり世の中や民を救うために存在する学問であって、人をやる気にさせるスイッチがお金だろうが名誉だろうが構わない(名誉欲に訴求するスイッチの方が低コストである分、経済学者は評価するだろう)。むしろ臨床上の純粋な問いや動機がないのに行われる、社会的に価値のある研究こそ、経済学のインセンティブ戦略として成功例の象徴といえるかもしれない。


さて、研究の実践をテーマに先回はリサーチ・クエスチョンについて取り上げたが、今回は次の工程、研究の骨子・骨格作りについて取り上げる。

既存研究を調べる

純粋に臨床現場で感じた疑問を解決させたいのであれば、自ら研究を開始する前に、人類がこれまでに行ってきた過去の研究を調べるというアプローチが最初の選択肢だろう。「世界中の誰一人としてこの疑問を持った人はいないのだろうか」と問うてみれば、誰かしらが何がしかの研究をしている可能性は大いにあり得る。疑問に対するど真ん中の答え、とは言えなくても大いなるヒントを過去の研究論文から得られたならば、何も自ら意を決して研究をしなくても済む。


米国の国立医学図書館にあるNCBI(National Center for Biotechnology Information、国立生物工学情報センター)が公開しているデータベースサービスであるPubMed(パブメド)は過去の研究論文を検索する人の第一選択肢として人気がある。無料サービスでもあって読者の皆さんの中にも利用者も多いことだろう。PubMedは、1966年より文献の蓄積を開始したMEDLINE(メドライン、Medical Literature Analysis and Retrieval System On-line)を中心に、出版社などから提供されるMEDLINE登録前の文献についても検索が可能である。ただ、研究論文の検索を実際に行うと、必要以上に多くの文献がヒットしたり、逆に肝心な文献が漏れてしまったりという苦労も耐えない。多くの研究論文を全て読もうにも、母国語ではない言語で書かれた1つの論文を十分理解できるほどに読み込むには相応の時間も要するうえ、何より医学、薬学、疫学、生物統計学、医療経済学といったスキルを全て所有でもしていなければ読んでいて分かりにくいところもある筈だ。それでもまずは自身が研究を始めるより先に、過去の研究は調べてみたいところだ。


一方、“不純”、と乱暴に一括りにするのは語弊もあるが、「とにかく研究の実施ありき」で始める研究であっても、既存の科学がどこまで真実を明らかにしているのか、あるいはライバルの研究者、研究機関に先を越されてはいないか、といった事由から既存の研究論文を検索する工程は欠かせないことだろう。既に多くの研究者が着手しているテーマに取り組むには、これまでよりも多くの症例数であったり、より妥当性の高い解析方法を用いたりといった付加価値や新たな魅力がなくてはいけない。せっかく、研究を実施しても、その結果を英語論文として掲載してくれるジャーナルが全くない、なんてことにもなりかねない(日本語論文の場合はどうにか、どこかの雑誌が掲載してくれるだろうが)。PubMedとは別の無料の文献検索サービスであるGoogle Scholarのサイトを開くと、「巨人の肩の上に立つ」という言葉が目に留まる。我々が何かしらの研究をするうえで、先人らの知恵を受け継ぎ、どこまで疑問が解決しているのか、どの部分が未解決なのかを見据え、ほんのわずかな一歩、あるいは半歩であっても当該領域の進歩を先に進める。研究者、科学者と自認しているのであれば、少なくとも我々はそういう使命を背負ってもいる。