仮説生成と仮説検証

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前回、今回とクリニカル・クエスチョン(臨床上の問い)→リサーチ・クエスチョン(研究上の問い)→研究の骨格作り(PICOT等)という、研究開始前の一連の工程を紹介してきたが、これはあくまで「仮説検証」を目的とした研究であることを前提としている。特に医療データを2次利用したい、という場合には「検証」というほどに大げさ(?)なものばかりではなく、単に「男女比を見たい」「年齢分布を見たい」、ただそれだけということもあるだろう。疫学分野においてこうした簡便な単純集計は「記述疫学」として、検証を目的とした研究とは区別される。単純な集計はときに誤解をもたらす(例えば「喫煙」が真なる影響因子なのに、喫煙者の割合が多い「男性」がリスクかのような集計結果となる)が、それでもなおこうした集計は、医療データ活用の基本であり標準であるともいえるだろう。そもそも、その疫学なる学問が創成された「ブロードストリート事件」は、コレラによる死亡例を地図上でマッピングするという、記述のアプローチがとられている。比較対照もなければ背景の補正法もない。ただ、その結果としていつまで続くかも分からなかったコレラ菌による多くの死者の発生という不幸を遮断したという意味で、「記述疫学により多くの命が救われた」のであって、単純集計は決して馬鹿にしたものではないのである。

人間賛歌?!

純粋に「目の前の患者さんを救うため」だけで人・金・物を投資できるほどの気概がある研究者や団体は多くなく、そこには名誉欲や経済的妥当性(例えばその研究の結果、医薬品が承認されることにより利益が得られる期待)が研究実施を後押しする。一方で「誰にも役に立たないだろう」と思われる研究を開始できるほどに我々は器用でもなく、やはり誰かの役に立ったらうれしいから研究をする。社会的な生き物である我々は利己的であり利他的でもあるのだ。そもそも、あんまり“聖人君子”が過ぎるとリアルワールドデータを取り扱うには相応しくない可能性すらある。データの中に密かに内在する虚栄心、羞恥心、怠惰といった人間らしさ故の挙動は、研究者が聖人君子だとおよそ見抜くことができない。その意味において私はリアルワールドデータを取り扱う素養が十分にある――つまりは聖人君子とは程遠いところの人間である――。 自慢するような話ではないのだが。