技術革新と社会の変容

夏の終わりを告げる9月の雨や秋風は平生ならば風情のあるものだが、先日、関東を直撃した台風はこうした類のものとは全く様子が違っていた。序章は翌朝の通勤への支障で、私自身はどうにか出勤できたものの、多くの同僚は通勤を断念せざるを得なかったようである。そして何より千葉県における被害は甚大で、自治体やボランティアによるブルーシートの提供や給水活動の報道が続いている。60万世帯を超えたという、停電の復旧は当初の予定よりもかなり遅れていて、未だ完全復旧に至っていないようである。一日も早い完全復旧を願ってやまない。

私自身は幸いにして何日も電気のない環境に身を置いたことがない。現代人にとって電気の存在は水や食料のように必要不可欠なものになって久しく、エジソン先生ですら、電気の発明がこれだけ社会の有り様を大きく変えようなどとは発明当時はイメージしきれなかったに違いない。また、これは電気の発明に限らず、コンピュータやインターネット、携帯電話の発明も、それが果たして社会をどのように変化させるのか、あるいは生活する我々の価値観にどのように影響するのか、発明者が必ずしも適切な予測をしきれるというものでもなかったであろう。例えば、“ビッグデータ時代の到来”はどうだろうか。技術革新により我々の生活が便利になった一方で、その副産物たる電子データの蓄積が何をもたらすものかについては、技術の発明者が意識して社会変容させたものではないだろう。しかしながら今や大量の情報が電子の形で累積され続けるという社会システムが“神の見えざる手”によってもたらされたというのは紛れもない事実である。「電気」がそうであるように、浴びるほど多くの「情報」もまた生活必需品となって久しい。今回は肥大し続ける情報量が医学系分野において何をもたらしたのか、そしてこれから何をもたらそうとしているのかについて考察してみよう。

インターネット由来の情報

本コラムの主題としてイメージされる医療DATAとは、電子カルテシステム由来のデータや保険請求を電子的にやりとりした結果として得られるレセプトデータがメインであろうし、これまでそのような想定で書き進めてきたところでもある。一方、大げさに“情報爆発”とも言われる大容量のデータの源泉は、決して電子カルテシステムや医事会計システムがメインではなく、インターネット・テクノロジーがもたらした電子化された画像や文字の送受に由来するものが主役といえる。ご承知の通り、データは多ければ多いほどよいと一概にいえるものではなく、特に、インターネット由来の情報となると、医療データ一般のバリデーション(本コラムのVol.10参照)をどうするかといったレベルの品質課題とは状況が全く異なる。フェイクニュースもあれば個人のプライバシーに土足で踏み込んだり、不必要な個人攻撃をしたりといった倫理違反があったりと、大げさにいえば無法地帯である。だからといってインターネット由来の情報は医療分野の、医学系研究に使えないものかといえばそうでもない。私はむしろ、是非積極的に活用するべきだと考えている。なぜか。そのキーワードと言えそうなのが、このところ各方面で叫ばれているPatient Centricity、患者中心に医療をとらえる動きである。