座長の気苦労

『俺の話は長い』というタイトルのドラマがあるようだ。話の長い人は当人が自覚している以上に周囲の人を困らせている可能性がある。私自身が学会や講演会に発表者として登壇させてもらう立場ならば自分自身の責任でタイムマネジメントに十分配慮すれば良いだけの話であるが、これが座長という立場の場合はそうもいかない。他の産業とはどうやら文化が違うようで「座長」といってもピンとこない方もいるかもしれないが、医療系の学会における「座長」とは、平たく言えば司会進行役のことである。本来ならば各発表者の持ち時間をマネジメントし、課せられたシンポジウムを時間通りに終わらせる使命を担っているのだが、時間をかなりオーバーして話される方もいて、これがなかなか難しいミッションである。また、持ち時間をショートして時間を余す方がほとんどいないというのも特徴で、発表が一人、また一人と終わる度に時間のオーバー分が肥大し、最後の発表者の方の時間がほとんど残っていない、という“惨劇”が待ち構えている。人はどうしてこうも時間をオーバーしがちなのだろうか。

今回取り上げる心理学分野に対する相応の理解は、RWD、つまり臨床現場をはじめとした現実世界、現実社会で生成されるデータを適切に取り扱う上で必要不可欠なものだと私は考えている。もちろん、精神疾患領域における臨床心理学や、小児科における発達心理学のように元々、心理学と密接に関わる医療系分野もあるのだが、私がここで申し上げたいのは「現実社会で生成されるデータ、リアルワールドのデータに潜む真実を洞察するうえで」心理学が必要、という意味である。本コラムでも第15回「バイアス(系統誤差)」では心理学分野で知られている認知バイアスの一部を取り上げたが、こうした心理バイアスは必ずしも疫学分野で履修できるものではない。上述した「人は時間をオーバーしがち」といった人間らしさ故の心理バイアスは、心理学から学ぶ方が合理的だろう。因みに、こうした持ち時間や期限を甘く見積もってしまう心理バイアスは「計画錯誤」なる概念で整理されており、ダニエル・カーネマンによる教科書執筆期間の研究や、カナダの心理学者ロジャー・ビューラーによる学生を使った宿題対応の研究などが有名である。人間は決して常に合理的な判断、合理的な意思決定が出来る生き物ではない。人間の人間らしさ。特にWebやSNS由来の情報まで研究に活用するつもりがあるのなら、心理学の履修はなおさら意義深い。

心理学分野の今

フロイトやアドラーといった創世記の心理学者は恐らくその天才的な洞察から扉を開いたといえるが、客観的にみるとその学説は当時、「証明」という形を必ずしも取ってはいなかったことから、いうなれば単なる思い込みや妄想との区別がされていなかったともいえる。天文学と星占いの区別が今ほどしっかりできていなかった当時にあって、心理学は易学との区別すらまともにはされていなかったであろうし、これは現代にあってもその“負の遺産”を引きずっている様子がうかがえる。有り体に言えば心理学は未だ科学だとは必ずしも認識されていない、ということである。ただ、実際のところはどうかといえば、心理学は実証研究により相応の“証明”が必須になっている。医学分野でも以前、勘と経験に依存しすぎないよう、Evidence-Based Medicine(論拠に基づく医療)という言葉が流行(?)した時期があったが、同様な流れとも言えよう。

とは言っても人の心そのものは直接観察することができないため、医学研究分野でいうところのサロゲイト(代替)をイベントとするより仕方がない。最近では脳科学との融合で脳波の測定を用いた研究も増えたが、未だその代替指標のほとんどは人の言動を観察して得られるものに依存している(操作的定義、例えば「愛情」の代替指標として「身体的接触回数」など)。ここに科学としての心理学の難しさがあると言える。また、フロイトやアドラーの時代では1つの「心理学」という学問領域であったものが、現代ではそこから派生した心理学分野は多岐にわたっている。上述した臨床心理学、発達心理学の他にも社会心理学、犯罪心理学、教育心理学等々、Web検索すれば枝分かれした心理学が幾つもヒットする。