ディストピア

映画『ターミネーター』の新作が好調らしい。言わずと知れたアーノルド・シュワルツェネッガーの出世作であり、人間に支配されていたコンピューターが自我に目覚め、自分たちを脅かす人間たちに一斉に攻撃を仕掛け始める、という、人類にとっての悪夢を描いた作品である。もちろん、これは作り話ではあるものの、このところの「AIが自分の仕事を奪うのではないか」という心理にも少し似たところがあるようにも思えないだろうか。こうした科学技術の進歩に対する“潜在的な恐怖感”と相まってか、巧妙な仕掛け、演出によってそれがあたかも現実世界であり、私たちがそこに身を置いているかのように引き込んでいく。このようにして進歩の裏側で見え隠れする悪夢はユートピア(理想郷)の反意語としてディストピアと呼称されることがある。ジョージ・オーウェルの作品にはディストピアを描いた『1984』という小説があるのだが、この作品がディストピアの語源とも言われる(が、本当のところは定かではないようだ)。そしてまたご存じのようにディストピア的な世界観を描いてヒットした映画作品は幾つもある。どうやら我々はそのディストピアなる世界を怖いもの見たさ故に、のぞき見したくなってしまう生き物のようである(『1984』がどのような作品であるのか、調べてみたくなったのではないだろうか)。 本コラムもお陰さまで予定していた連載30回の30回目を迎えることができた。これまでの29回は医療データの活用が描く世界がいかに有意義であるのか、という立ち位置から書かせていただいていたので、最後くらいはそれがもたらす負の側面にスポットを当てて考察をしてみようと思う。もちろん、私自身の身は一つであって、医療データ活用については肯定派であることは動かし難く、恐らくはここまでお付き合いくださった読者諸氏もまた肯定派に違いない(ですよね?)。然るに肯定派が語る「否定論」を肯定派が読み解く、といういわば茶番なのではあるが、それでも一旦立ち止まって負の側面を考察する意義は大いにあるだろう。

超監視社会

この頃は「超監視社会」という活字がしばしば目に止まるようになったが、日本の新聞記事がこのように表現するのは今のところ中国での話に限定しているようではある。医療データの活用が描くディストピアは言わずと知れた、個人情報の流出や悪用に起因した世界であるが、その入手者が悪人ではなく国家や自治体ということになるとイコール、ディストピアと言い切るのは軽率だろう。中国、特に北京において張り巡らされているという、種々の監視カメラは国家権力が市民の活動を監視するという側面と、市民を犯罪から守ってくれる側面とを併せ持つ。国内においても未来型まちづくりプロジェクトは各地で試行され始めており、千葉県の柏市や日立東大ラボによる愛媛県の松山市など、超スマート社会のあり方が模索されている。医療分野により近いところで言えば、医療を中心としたまちづくりを展開しているMBT(Medicine-Based Town)が知られる。政府もSociety5.0*なる用語にてこうした活動を促進しており、北京ほどには極端ではなくとも。ある程度の国家的な“監視社会”は、いずれ日本でも実装されるように思える。確かに私たちを犯罪から守ってくれるという側面には大いに魅力があり、社会問題となっている陰湿ないじめや虐待、あおり運転や夜道での凶悪犯罪などを取り締まるうえで監視カメラの存在はこうした社会課題を相応に解決し、発生しにくくしてくれることだろう。また、自転車の放置やゴミのポイ捨てなどが発生しなくなれば、より美しい街が低コストで実現される可能性もある。特に日本においては超高齢化社会が“課題先進国”として進むことから、想定されている最大で300万人とも言われる認知症の人を、まちとして国として見守ることも可能で、まちの監視システムはむしろ最適解ではないか、そんな声も聞こえてきそうだ。一方、IDEAと名付けられ世界的にも注目されていたカナダのトロント市スマートシティ構想は、今年になってカナダ自由人権協会からプロジェクトの打ち切りを訴えられている。プロジェクト構想の目的自体は自動運転、ライドシェア、ロボットによるデリバリー、職の創出、CO2の削減等々の“スマート社会”の促進である。訴訟の詳しい内容までは分からないのだが、仮に社会的な意義が大きかったとしてもプロジェクトを中止してほしいという訴えに対して、皆さんも心情としては全く分からないというわけでもないだろう。