スクショ晒しを見ると、弥勒になる

 スプラッターなどのグロテスクな映像が苦手で、映画でそういったシーンを見るときは高確率で薄目になる。もともと細い目をさらに閉じて、弥勒菩薩半跏思惟像のような顔で画面を流し見するのである。こうすると、情報の流入量が削減され、心をダメージから多少守れるという寸法。


 同じように、なんとなく目をかっぴらいてまじまじと見つめることができないものが私にはいくつかある。「スクショ晒し」の画像というのも実はそのうちの一つだ。


 ほとんどの人はご存知だろうが一応説明しておくと、これは主に、メッセンジャーアプリでのやり取り、SNSでの投稿など、ネット上の個人のアウトプットをスクリーンショット機能で撮影し、その画像を第三者や不特定多数に開示する行為を指す。


 最近よく見るのは例えば、LINEやダイレクトメールでのプライベートなやり取りを、大勢に拡散する目的でツイッターに晒しているもの。中学や高校で教師をしている友人たちからは、「いじめられている生徒が、メッセのやり取りをいじめグループの間で晒されてトラブルになった」なんて話も頻繁に聞く。


 今やスクショ晒しは、ネット上の一種の文化として定着しているらしい。毎日のように誰かのメッセやツイートのスクショがバズっているし、有名人の不祥事が週刊誌などで報じられる際は、“証拠”画像として、関係者のメッセでのやり取りがそのまま画像掲載されることも珍しくない。


 しかし前述のとおり、これが私はけっこう苦手だ。


 笑えるものやほのぼのしたものならいいのだが、そうではないエグいやつ、たとえば不倫の証拠LINEなんかが視界に入ると、とっさに表情筋が弥勒モードに移行してしまう……とまあこれは少し大げさで、映画のグロいシーンほど「見たくなーい!」と激しく思うわけではない。ただ、それでもじっくり見るのは嫌で、なんとなく目をすべらせておしまいにする、ということが多いのは事実である。


 他の人にとってどうかは知らないが、どうも私にとって、晒されているスクショ画像はやや「グロテスクなもの」に属するらしい。第三者に見られることを一切想定していない、しかもプライベートな領域に深く踏み込んでいるメッセの文章は、私からすると内臓や骨にも等しいのだ。

口頭で言ってくれ

 先日も、某週刊誌で、とある女性議員のメッセが晒されているのを見たときに弥勒面になった。うへえ、と思ってとっさに視線をそらしてしまったのだ。もちろん、そこで語られている話が気持ち悪かったからではない。「私が、こんな形で見ていいもんじゃない」と感じたからだ。


 念のため言っておくが、私はゴシップも悪口も、時と場合と話し相手によってはおおいに楽しめるタイプだ。しかしそんな私でも、スクショ晒しには抵抗がある。


 こういう場合に私が目撃するのは、「彼女のメッセ上の発言」それ自体ではないのだ。彼女ととある人物のやりとりが、おそらくはやり取りをした相手の判断によってスクショされ、週刊誌に売り渡され、本来ならそのやり取りを目撃するはずのなかった私の視界にまで入ってきた、という一連の流れ自体なのである。不快さの、最初のポイントはここにある。


 だからこれは、週刊誌のようなオープンな場で拡散されているものに対してだけ抱く感覚ではない。友人知人からダイレクトに画像を送られたとき、つまり、「晒し先」として指定された場合も、だいたい弥勒になってしまう。


 そう、これをする人、案外多いのである。スクショを転送するのは女子高生や大学生だけだろうと私などは思い込んでいたのだが、2013年の後半にスマホを買ってから、決してそんなことはないと思い知らされた。少し前に別れた恋人も、私よりずっと年上ながら、女子高生ばりにスクショ転送を多用する人だった。彼の様子を見るに、社会的地位の高い中高年男性たちも、カジュアルにスクショ画像を回しあっているようであった。また、週刊誌の編集者にスクショ画像を渡す人は私が思っているよりずっと多いらしい、と知る機会にも何度か恵まれた。おっかない世の中である。「最近の女子高生は、スクショ晒しを避けるため、本当に大事な秘密は口頭で言い合う」という噂を聞いたことがあるが、それは正しいと言わざるを得ない。


 じゃあ、口伝えなど手間のかかった形で聞くのならどんな内容であってもいいのか……と聞かれたら、「限度はあるけど、基本的にはそう思う」と答える。私と無関係でない人が、私に向かって、私に聞かせたいと思って放った言葉であるなら、私はそれを弥勒顔になったりせず受け止めるだろう。その言葉の宛先は、私だからである。


 あるいは、数奇な縁から画家・上村松園の恋文を大量に見せられたときの宮尾登美子のように、「こればかりは自分が引き受けるしかない」と腹をくくるような事態に遭遇したら、それはそれで、どんなにグロテスクな他人の秘密だろうが貪り読むのかもしれない。が、LINEやFBメッセなんて2日に1通くらいしかこない、ツイッターはただ自分が野放図に投稿しておしまい、というような私のネットライフ(おまけに最近スマホをガラケーに戻した!)に、そんな巡り合わせはなさそうである。

「見て」楽しめるメッセ

 ところで、いったいいつから、こんなにカジュアルに個人間のやり取りがアップされるようになったのだろう。


 スクショをアップするという行為自体は、決して最近発明された行為ではない。スクリーンショットというパソコンの機能と、晒す先——例えば自分のWebサイトや、2ちゃんねる(現5ちゃんねる)のような不特定多数が集まる場所ができた頃から、同じような行為は行われている。キャッシュでWeb上のデータを残す方法とともに、スクリーンショットによる現状の記録+アップは、インターネット黎明期からおなじみだった。


 しかし2000年代までは、個人間のやり取りよりも、ゲームのプレイ画面だとかデスクトップ、あるいは個人のWebサイトの更新履歴だとかがアップされることの方が多かったと思う。個人間のやり取りも晒されてはいたのだろうが(例えばチャットのログなど)、SNSのなかったこの時代、今のようにそれが数千、数万という人数の間で「バズる」なんてことは起こりようがなかった。


 では、今のように「個人間のやりとり」——特にメッセのスクショなどが盛んにアップされるようになったのはいつからか。グーグルの検索結果を遡る限り、おそらくは2012年後半〜2013年頃からである。スマホの普及、SNS人口の急増、メッセンジャーアプリの浸透が重なった時期だ。


 ツイッターで年刻みの検索をしてみたところ、2013年になると「最近流行りのLINE晒し」というような表現が多く見られた。ツイッターで、投稿画像が大きなサイズでタイムラインに表示されるなどの機能強化があったのも、2013年1月のアップデート時である。


 それに先んじて、LINE(2011年リリース)をはじめとするメッセアプリの普及は、私たちのテキストコミュニケーションに対する心構えを、大なり小なり変えていたと思う。ポップなトーク画面、バラエティ豊かなスタンプなどによって、メッセでのやり取りは、メール時代よりずっとビジュアル的な、「見て楽しむ」ものになった。


 もちろん、メール時代から絵文字文化はあった。しかしメッセアプリ登場後、我々はそんなものを駆使しなくとも、誰もが視覚的に演出された会話を楽しめるようになったのだ。


 ここに、多くの人に(もちろん私にも)備わっている「他人の秘密を覗き見たい」「注目されたい」「同情されたい」などの欲求が注ぎ込まれた結果生まれたものの一つが、「本来は一対一で、あるいはクローズな場でのみ読まれておしまいだったはずのものを晒す」という行為なのだと思う。今では人は、まるでマンガの1ページのようにメッセのスクショを見て楽しむ。

SNSの暴風に「晒す」目的

 最近では、メッセではなく、ツイッターのツイートやFacebook投稿を画像で「晒す」行為も増えた。画像添付なら向こうが元投稿を消しても残り続けるし、複数投稿を1ツイートでまとめて見せることもできる。相手に通知が行くこともない。名前を消して、プライバシーにある程度配慮しているように見せかけることもできる。便利だ。だから多用される。


 これについては、致し方ないと思う場合もある。例えば自分に関するデマをSNS上で流されている場合、火元の誤りを正すためにもそこまでの経緯を、あちらが修正不可な形で示さざるを得ないだろう。最近も、とある飲食店の店長とその店を訪れた客の間でSNS投稿をめぐるトラブルがあり、こじれにこじれた騒動を収束させるため、客の方がスクショを駆使してことの経緯をブログにまとめるということがあった。こういうのはやむを得ないだろう。ツイッターのログはどんどん流れてしまうからである。


 ただしツイートのスクショ晒しも、それがもともと公に放たれていたものだとはいえ、基本的にはあまり良い行為ではないと感じる。私もかなり前には何度かやった記憶があるのだが(とんでもないリプライをもらったときなど)、今はやらなくなった。


 多くの人が感じていることだろうが、SNSの拡散力は年々肥大している。「いい話」や動物画像のような毒気のない投稿も拡散されるが、ネガティブなもの——批判、侮蔑、嘲笑、攻撃を含んだツイートも同じくらい、いやそれ以上の激しさで拡散されるようになった。その勢いたるや、ほとんど竜巻、台風、暴風である。この暴風が吹き交う中に何かを「晒す」のはどういうことか。その答えは、ほんの2、3年前と比べても変わったはずだ。


 でも、この時代に積極的に「(ネガティブな目的で)晒す」人は、むしろその暴風の力に期待しているのだろう。それこそが、私がスクショ晒しに対する嫌悪感を拭えない、一番大きなポイントでもある。


 人が、SNSの暴風に期待するもの。それは、本来なら自分が言うべき言葉を、大勢に代弁してもらうことだ。そう、自分が代弁者たちに何を言わせたいのか、「晒す」側の人間は絶対にわかっているはずなのだ。

「みんながそう言っている」のためのスクショ晒し

 「自分の代わりに、誰かこの人の発言に対して何か言ってやってほしい」という気持ち。自分一人でそれを見、味わい、ダメージを受けたり憤ったりするだけでは足りず、外部からの言葉を補充せずにいられないという不安——。もちろんこれら自体は、別に変なものではない。うちひしがれたときや悲しいときに、人は他者の言葉の力を求める。「そう思っているのはあなただけじゃない」と言ってもらうことがどれだけ救いになるかくらい、私だって知っている。


 しかしこの時に、友人や家族でなく、“不特定多数”に代弁してほしいと望んでしまう心の動きを、私は警戒する。そこで大勢の代弁者に求められるセリフが、誰かへの非難を含むようなものであればなおさらだ。SNSが普及した今、それはあまりにインスタントに、そして大規模に実現できてしまう。人の頭の上に、100本の槍を降らせるようなことも不可能ではない。


 といっても、非難を浴びるその人がかわいそうだからやめよう、などと良い子ぶるつもりはない。その気持ちがないわけでもないが、それより私は、一番言いたいことを自分では言い切らず、なるべく他の人に言わせようとする奴が嫌いなのだ。導線を作った上で大勢に“それ”を言わせ、「ほーら、みんながそう言っているじゃないですか」とニヤニヤ笑う人を見ると、不愉快のあまり、弥勒面ではなく金剛力士像面になってしまう。それは自分の言葉を隠蔽し、他人の言葉の選択肢を奪う行為だと思う。


 前述の、女性議員のメッセスクショ晒しにも同様の感想を抱く。彼女の交わしていた会話を晒した人たちが何を一番言いたいのかと言えば、「彼女の夫である某議員が気に入らない」ということのはずだ。彼女の言動自体に、本気で物申さねばと思っている人間なんてろくにいないだろう。なのに、あたかもそれが問題であるかのような体裁でメッセ画像を晒し、本題は野次馬たちに語らせようというこの構図にグロさを感じる。


 しかしながらこのスクショ晒し文化、まだまだ廃れる気配はなさそうだ。薄目の日々は続く。


著者:小池みき

フリーライター・漫画家。1987年生まれ。愛知県出身。2013年より書籍ライター・編集者としての活動を開始。『百合のリアル』『残念な政治家を選ばない技術—選挙リテラシー入門』など、新書を中心に書籍の企画・構成に関わる。エッセイコミックの著書に『同居人の美少女がレズビアンだった件』『家族が片づけられない』がある。

公式サイト「Mikipond.WEB

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