ヒトの遺伝情報の全配列(ゲノム)を読み解く「ヒトゲノム計画」が完了したのは2003年のことだ。


 生命活動を分子の働きで見ることができるようになった人類は、その営みをデータとして扱い記述することができるようになった。これに伴って、生命科学研究における情報科学の重要性は日に日に大きくなっている。


 生命活動を「見る」技術の発展は、学術研究分野にとどまらない。MRIやCTのように、人間の体内を可視化する医療機器も多くの医療機関で使われているし、アップルウォッチやフィットビットに代表されるような、日々の活動量や心拍、睡眠などを個人が測るデバイスやアプリも数多く出回っている。最近では、個人が自身の遺伝子情報を調べられるサービスも提供され、人の身体に関する情報は、かつてよりも格段に容易に、個人でも知ることができるようになっている。


 ただ、自分のゲノム情報が分かり、活動量や心拍、睡眠などが分かったとしても、それらの関連は厳密な意味ではよく分かっていない。何らかの統計値、研究者や医療従事者の経験値、あるいは個人の経験則から、様々な推測が成り立つことは確かだ。実際、メディアなどで取りげられる健康に関する情報は大抵、統計値に基づく指摘である。ただ実際には、そうした統計や推測が「各個人にどれぐらい当てはまるか」はよく分からない。食事のカロリー制限や回数と太りやすさ、運動の効果、薬を服用した際の効き方、アレルギーの有無と影響度、パフォーマンス維持に必要な睡眠時間……。どれをとっても、実際のところは一様ではなく、かなりの個人差がある。つまり、自分の体の中で実際に何が起こっていて、どんな生活をすると自分の体がどうなっていくのかをデータに基づいて知る術は、私たちはまだ手にしていないわけだ。


 こうした問題意識から、「人を解き明かしたい」と考え、それに挑んでいるのが、2017年10月に設立されたヒューマノーム研究所である。ヒューマノームとは、ヒト(human)と「-ome」(全体・総体を意味する接尾語)を組み合わせた造語。「ヒトとは何か」という壮大な問いにデータサイエンスで挑もうとしているわけだ。


 ヒューマノーム研究所の取り組みのユニークな点は大きく2つある。一つは、「一人のヒト」の体内で起こっていることを「統合的に」理解しようとしていることである。個別具体的な「一人のヒト」へのこだわりは、従来の研究が、「平均的なヒト」という抽象的な人格を対象にしているのと大きく異なる。さらには、その「一人のヒト」の体内で、睡眠や心拍など、これまで別個のものとしてとらえられていたデータの、相互の関連付けを統合的かつ定量的に測定しようとしている。


 もう一つのユニークな点は、この研究を学術研究機関ではなく、民間の企業として進めていこうとしていることだろう。つまり、この壮大な研究を、利用者(あるいは利用企業)から対価をもらって提供するサービスにつなげようとしている。しかも、取り組んでいるのは生まれて間もないベンチャー企業だ。


 2018年の終わりから2019年初頭にかけては、山形県鶴岡市湯野浜の温泉街で、この野心的な試みを具現化する第一歩となる研究プロジェクトが行われた。温泉旅館に勤める25人を対象に、食事と便、血圧と睡眠を一定期間にわたって採取・調査する取り組みである。


 ヒューマノーム研究とは一体何で、その先に何を見ているのか――。ヒューマノーム研究所を立ち上げたキーパーソンの2人に話を聞いた。社長で情報科学の研究者である瀬々 潤氏と、取締役で免疫学の研究者、そして「ヒューマノーム」という言葉の産みの親でもある、井上 浄氏である。

「平均」には、もはや誰も興味を抱かない

(以下、井上氏、瀬々氏のインタビュー)


まず、「ヒューマノーム研究」とは何か、改めて教えてください。


井上氏 全体をまとめて言うなら、「一人のヒトに関わるさまざまなデータを統合的に解析して『ヒトとは何か』という問いに挑む新しい学問領域」ということになります。


 いま、生命科学の分野はものすごいスピードで研究が進んでいます。ゲノム解析、免疫の働き、腸内細菌、脳科学など、生命科学の中でも多岐にわたる分野で、データに基づいて次々に新しいことが明らかになってきています。


 最近は、Apple WatchやFitbitのような、ヘルスケアデバイスが容易に手に入ります。ヒトの健康にまつわる膨大なデータを取得できるようになっているわけです。ただ、血圧や血糖値などの健康情報、それらのデータはバラバラに集められていて、それぞれの関連を統合的に解析する研究は私の知る限り、世界でもほとんど取り組まれていません。そもそも、それらの異なるデータを1カ所に集めてそれらの関連性を調べる場所がありません。まずはデータを一つの場所に集めて、それらの関連性をきちんと調べる。そのためにヒューマノーム研究所を立ち上げました。ヒューマノーム研究所は民間企業ですが、僕も瀬々も研究者でもあるので、エビデンスになり得るデータを集めながら、個々のデータの相関関係を調べていきます。


瀬々氏 僕らがみな経験則で知っている通り、前の日にお酒を飲みすぎたら次の日は眠いですし、塩分を摂り過ぎた翌日はむくみます。ただ、多くの研究データは、お酒はお酒だけ、睡眠は睡眠だけ、食事は食事だけとバラバラに影響を考えていることが大半で、それぞれの関連性が見えません。それらをつないで統合的に理解できるようになってこそ、本当に面白いことが分かるようになるはずです。


テレビやネットにはさまざまな健康情報があふれていますが、それらを合わせて見ると、ときには正反対の対策を両立させなければならないなんてことがありますよね。それってなぜなのでしょうか?


瀬々氏 従来の研究が、統計データに基づいて「平均的な人」を扱おうとしていることに大きな原因があります。それはマスのデータとしては確かに意味があるのですが、みんながみんな「平均的な身体」を備えているということはあり得ません。誰しもどこかで平均から外れているし、場合によってはきわめて稀な身体的特徴を備えている人もいますから。結局のところ健康に関して知りたいのは、自分がどんな状態なのか、自分が将来どうなるかということであって、平均値ではありませんよね。


井上氏 「日本人平均」とか、正直、自分じゃないから関係ないじゃないですか。自分に関するデータを網羅的に蓄積して、それぞれの関連性を見ていくと、自分の将来の健康状況をかなりの精度で予測できるようになると考えています。


 ヒューマノーム研究所を立ち上げたのは、それを可能にするだけの幅広いデータを集めやすくなってきたことが、一つの大きな理由です。


 僕個人に関して言えば、Fitbitを常に身に着けて活動量や心拍のデータをとっていますし、食習慣や排便の記録もつけています。そうしたデータを今から積み上げていけば、どこかで解析できるようになります。でも、積み上げる場所がバラバラだと、今度はそれらを集めてくるのに時間とコストがかかってしまいます。だったら初めから同じ場所に入れておける仕組みを作っておこうと、この会社を思って立ち上げたわけです。


瀬々氏 データを統合解析する際に重要なのがAI(人工知能)であり機械学習です。機械学習と統計は混同されがちですが、両者の目的は異なります。統計は、既にあるデータを「説明」することに重きを置きますが、AI・機械学習は、データに基づいて今の状況を「判別」したり、将来を「予測」したりするための技術です。さまざまな健康データが取れるようになってきたし、それらのデータから人の将来の健康を予測するAIを作れるようにもなっています。だからこそ、今このタイミングでヒューマノーム研究所の設立に踏み切りました。


ここから先は、DIGITALIST会員(登録無料)のみが閲覧することができます。

次ページ

「食べる・眠る・働く」のつながりを徹底的に解明する

会員の方は、ログインしてください。
会員でない方は、会員登録(無料)をお願いします。