「社員が快適に、かつパフォーマンスを発揮しながら働ける職場づくりを」――働き方改革、健康経営が話題になる中で、デジタル技術を職場のメンタルヘルス支援に活用しようという取り組みが進められている。東京大学大学院教育学研究科の下山晴彦教授(臨床心理学コース)は、2019年4月にANAエアポートサービスと共同研究を開始した(東京大学の発表情報はこちら)。デジタル技術や心理学の知見を生かして職場を活性化させようという狙いである。


 ANAエアポートサービスはANAホールディングスの子会社で、空港での旅客サービス業務を手掛ける。空港業務は早朝・深夜の勤務があるうえにクレーム対応がつきもの。羽田空港の国際線発着枠の拡大に備えて従業員を増やしているが、心理的負担が大きいことに変わりはない。職場のストレス負荷を抑え、従業員のモチベーションを維持できる職場づくりは経営課題となっている。


 職場のメンタルヘルス維持・向上にデジタル技術をどう活用できるのか。その先にある健康的な職場とはどのようなものか。下山氏に聞いた。

メンタルケアをもっと効率的に

ANAエアポートサービスと共同研究を開めましたね。メンタルヘルスにITはどう役立つのでしょうか。


下山氏 あくまでもITはツールでしかありません。ただ、コンピュータやインターネットを使うことでより効果的な健康経営を実現できるようになります。

東京大学大学院教育学研究科の下山晴彦教授(臨床心理学コース)(筆者撮影)

 私たちは、職場における心の健康をサポートする方法を研究しています。民間企業などの協力も得て研究してきた成果の一つが、2018年に発表した「ココロ・ストレッチ」というサービスです。これは企業向けのサービスで、社員一人ひとりのメンタルヘルス向上をサポートするものです。エンジニアの派遣事業を手がけるリツアンSTCと共同で、サービスの有効性について検証を進めてきました。


 ココロ・ストレッチは、社員がPCやスマホアプリを通じて、メンタルヘルスに関する知識を自然と学べる仕掛けになっています。最大のポイントは、メンタルが不調になってからではなく、日常的に利用する点です。働く中で生じ、積み重なってくるストレスに柔軟に対応できるよう、レジリエンス(精神的回復力)を高めると同時に、メンタルの不調を予防し、社員の主体的な行動を促す内容になっています。


 代表的な機能の一つが、呼吸法を指導する「呼吸レッスン」の機能です。呼吸法は心の落ち着きを取り戻すのに非常に有効な手段です。これを効果的に実践できるよう、アプリ画面で呼吸法をわかりやすくガイドします。ほかに、アプリからの質問に答えていくことで、自分の心身の状態をセルフチェックし、その状態に応じたメンタルケアの方法を学べるようにもなっています。


「ココロ・ストレッチ」の画面例。質問に答えていくことで、自分の心身の状態をセルフチェックできる(画像提供:東京大学下山研究室)

 アプリから、臨床心理士など専属の心理アドバイザーに相談できる機能も備えています。サービスとして提携したアドバイザーを用意しているので、会社側に知られることなく相談できるようになっています。


 ANAエアポートサービスとの共同研究では、このココロ・ストレッチをカスタマイズし、主に新入社員向けとして提供することを検討しています。社会人歴が浅い人は、ストレスにさらされた際にどうすればいいか、適切な対処法を知らないことが多いためです。

呼吸法を指導する「呼吸レッスン」機能の画面例。アプリの画面に沿うことで効果的な呼吸を実践できる(画像提供:東京大学下山研究室)

日本に蔓延する「サービスギャップ」を埋める

ココロ・ストレッチのようなツールを用意した理由と、それを企業向けに提供しようと考えた背景を教えてください。


下山氏 現代人は一般的に、仕事に長い時間を費やしています。そのため、悩みの多くを仕事に関わることや職場の人間関係になります。ですから、現代人のメンタルケアとしては、職場という観点が不可欠です。


 一方で、企業では「働き方改革」や「健康経営」に対する意識が高まりつつあります。それなら、企業を通じたサポートとするほうが、確実かつ効果的に個々人にアプローチできると考えました。


 メンタルヘルスのサポートでは、メンタルケアの知識や情報を、正しく、しっかりと提供することが大切です。当然、そういった情報にアクセスしやすい仕組みを作らなければなりません。PCやスマホで利用できるようにすれば、社員は時間や場所に関係なくアクセスできます。個々人にパーソナライズした機能を提供できる点もIT活用のメリットです。


 ひるがえって日本全体で見た場合には「サービスギャップ」の問題が大きく、これをITに基づいたアプローチで解消したいという思いもあります。


サービスギャップとは何でしょうか。


下山氏 適切な支援が必要な人がいるにもかかわらず、適切な時期に、適切に支援できていない状況があることを指します。


 日本は欧米に比べると、メンタル分野のサービスが十分に発達していません。例えば英国などでは、メンタルの不調を訴える人の状態に応じて、適切なサービス提供者のところにガイドする仕組みが確立されています。ネットを通じた簡易なカウンセリングサービスで済むレベルなのか、カウンセラーによる本格的な心理相談が必要なのか、それとも精神科医による診療と投薬が必要な状態なのか、という具合にレベルを判別することで、適切にケアできるわけです。


 日本の場合、大きな問題が2つあります。1つめは、自分はどこに行くのが適切なのかが分かりにくいことです。薬が不要な軽症の人でも、最初から病院やクリニックの精神科、あるいは心療内科に診察を受けに行くことになります。このため、精神科や心療内科では患者が集中して、パンク状態が続いています。


 2つめの問題は「スティグマ(烙印)」です。スティグマとは、レッテルを貼られることで自分や周囲の行動が変わることを指します。メンタルケアの分野では、自分がうつ病などを抱えているという事実を周囲に知られるのを恐れていること、あるいは事実を知った周囲の態度が変わることを言います。


 スティグマは深刻な問題です。「うつ病だと会社にばれたら処遇に悪い影響が及ぶ」といった心配を抱えていると、治療を受けようという意志が働きにくくなります。日本では100万人規模の人がうつ病の治療を受けていますが、本来治療が必要な人のほんの4分の1程度だとさえ言われています。


 このようなサービスギャップがあるために、周囲が気づいたときにはかなりひどい状態になっている、といったことが起こります。うつ病は、早い段階で治療を始めればより早期に回復する傾向があります。だからこそ、サービスギャップを解消していかなければなりません。


 サービスギャップが生じる背景には、ビジネスパーソンの間でメンタルケアに関する正しい知識が不足していることもあります。正しい知識を身につければスティグマも減りますし、その結果、自分自身のセルフケアも進みやすくなります。周囲の人々と協力して適切な対策を講じやすくもなります。


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自分でメンタルケアする文化を根付かせるべき

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