(写真:123RF)

 人材開発と言った場合、何を開発するのだろう。スキル、ケーパビリティ、コンピテンシーなど片仮名で説明される何かであろうが、才能を開発するという言い方はあまりしない。

 「才能」を広辞苑で引くと「才知と能力。ある個人の一定の素質、または訓練によって得られた能力」と出ていた。だが、どちらかというと前者、生まれつき持っているものを才能とみなすことが多い気がする。

 後から開発しづらいとしても才能があるなら結構なことである。だが、企業は抱えている人材の才能を生かせているだろうか。

 「近代日本の歩みはすべて才能扼殺の上に築かれてきた」

 このように書いた思想家がいる。才能を生かすどころか、日本はそれを絞め殺してきた、という指摘は重い。

 出典は『才能を尊重せよ』という一文で初出は今から60年前の昭和34年(1959年)、筆者は批評家・演出家であった福田恆存(つねあり)氏、同氏の著書『私の演劇敎室』(新潮社・絶版)に収められた。

 『才能を尊重せよ』から引用しつつ、日本の現状に当てはめて考えてみたい。原文は正字正仮名で書かれているが「尊重」の「尊」の正字はパソコンで表示できなかったので「尊」のままにしてある。

「商業主義をどう考えたらよいか」

 福田氏はある時、民間放送に従事していた知人から「商業主義をどう考えたらよいか」と相談され、『才能を尊重せよ』を書いた。

 テレビやラジオは公共の電波を使っており、放送局にはそれに見合う活動が期待される一方、営利企業として金儲けもしなければならない。つまり商業主義がついてまわり、次のような状態になる。

 「企畫制作にたづさはるものは(中略)つねに理想と現實の兩極に引裂かれながら仕事を進めねばならない」

 これは放送局に限ったことではない。世の中に役立つ仕事をしたいと考えて就職したが無味乾燥な仕事をする日々が続く。顧客が喜ぶ新しい提案をしようとしたが、自信がない上司の判断で一般的な商談にされてしまった。

 放送の大義と商業主義といった「理想と現實との間の隙間」を埋めるのは才能だと福田氏は書いた。

 「(理想と現實との間の隙間は)實行で埋めたほうがいいに決つてゐる」「さうなつて來てモノをいふのは『才能』といふもの以外にはない」

 世の中には新しい技術や新しい製品が次々に出てくる。人材開発の理論や手法も同様である。そうした新しい何かを自分のものにする、それが才能である。

 「新しい企業であるといふことは、私たちはまだその『才能』をもつてゐないといふことであり、それが如何なるものか発見さへしてゐないといふことである。それを見出し作るのが何より大事なことだ。『才能』といふのは、いひかへればそれを自分のものにするといふことである」

 才能があれば無味乾燥な仕事は仕事としてこなしつつ、新たな仕事もやってのけることができる。才能があれば上司の指示に従いつつも顧客を味方につけ、結果として新しい取り組みを成功させることもできる。

 実際、経営者に話を聞くと、「言われた通りのことをやる人はいらない」「指示待ち人間では困る」などと言う。そうであるなら才能ある人を尊重し、しかるべき報酬を用意する必要がある。

 「經營者は他の媒體經營よりも、さらに『才能』に酬(むく)いる手段をとらねばならない」

 現場の人々も同じである。「彼の提案は素晴らしい」「彼女のやり方を見習おう」といったように敬意を払う。

 「お互い同士、何よりも『才能』を尊重し合はなければならない」。