言葉にすがると自分を見失う

 問題は、企業において才能を尊重するようになっていないことだ。

 「近代日本の歩みはすべて才能扼殺の上に築かれてきた。それは西洋の理想と日本の現實との間の隙間があまりにも大きかったからである。それが大きすぎたので私たちはそれを埋める意欲や實行よりも、それが埋まらぬ理由發見に、すなはち言葉にすがり、言葉をもてあそぶことに僅かに慰めを見出してきた」

 明治以降、西洋で生まれ育った思想、手法、技術を日本は後追いしてきた。「言葉にすがる」とは次のような振る舞いを指す。

 「仕事がうまく行かないと、まづその理由を考へる。(中略)理想と現實との間の隙間を埋めることができる言葉を見つけようとする」

 一例が「商業主義」である。現実には商業主義があるから理想の仕事ができない。この手の言葉はいくらでも見つけられる。「縦割組織」「悪平等」「ことなかれ主義」「大企業病」などなど。

 だが、言葉にすがることについて福田氏は二つの危険があると書く。一つは「その言葉さへ見つけられれば、隙間が埋つたやうな錯覺をいだく」こと。もう一つは「一度さういふ目やすとしてある言葉が固定してしまふと、そのあとで、現實がどう變(か)わろうと、また隙間がどう變わろうと、固定した言葉に捉はれて肝腎の現實が見えなくなってしまふ」こと。

 「うちは縦割なので」「我が社は大企業病」と現実を批判し、理想を唱えたからといって現実が変わり理想に近づくわけではない。

 しかも現実に何らかの言葉を冠して批判していると肝心要の自分を蚊帳の外に置くようになる。社会が悪い、業界が悪い、顧客が悪い、組織が悪い、上司が悪い、きりがない。これらは「主體の問題をすべて客體の側に換算する手である」と福田氏は喝破し、次のように言い切った。

 「それで説明はついても解決はつかぬ。解決をつけるのは『才能』以外にはない」

 仕事をやってのける才能が期待されるべきなのに、そうならなくなってしまう。才能がある人がいたとしても周囲が協力せず、才能のある人の居場所がなくなっていく。

 たとえ才能が乏しくても、これでよいのか、と悩む良心を持ち、それでも仕事だからやってみようと苦労する人を日本の企業は評価してきた。

 「私たちはそれを『才能』の問題として考へず、一途に理想や良心や誠實の問題として考へ、その立場から現實規定を行ふのをつねとしてきた。(中略)さうして『才能』を問題の外に置くことが、また、『才能』を育てぬ傾向を、さらにはそれを殺す傾向を助長してきたのである」