今私は、選ばれたプロフェッショナルスピーカーだけが受けられる、4日間の集中ブートキャンプを終え、ニューヨークに戻る帰路でこの記事を書いています。

 ニュージャージー州のとある閑静な街に拠点を構える「トレーニング場」には、北米はもちろん、世界中からプロフェッショナルスピーカーが集まり、お互いに切磋琢磨しながら研鑽を積んでいきます。集まったプロフェッショナルスピーカーは40人。これまでの登壇ビデオやトーク内容を提出、さらにプロフェッショナルスピーカーとしての現在地から目指すゴールについて様々なインタビューを受けたうえで、「合格」した人たちだけが受講できるプログラムです。

 私はたった一人のアジア人、たった一人の英語ノンネイティブです。私と2人の黒人を除き、あとは全員が白人。普段、人種のるつぼと言われるニューヨークにいる私も、ある程度の緊張を覚え、少々孤立感を感じずにはいられませんでした。ですが、3日目になる頃には打ち解け、夜にワインを飲みながら語らっていると、アジア人が一人だけという「明らか」な状況に皆は気づいておらず、私が「いつもアジア人一人なんだよね」と言って初めて、「え?本当?」と気づくのが面白いなと感じました。「自分だけ、〇〇……」という状況を気にしているのは、本当に、自分だけだったりするのですね。

 この集中ブートキャンプは4日間だと書きましたが、実は4カ月間にわたり繰り返し行われるので、合計16日間の長丁場です。ボーカルトレーニングからムーブメント、原稿読み合わせ、場当たり、リハーサル、コーチング、スピーキングビジネスについて、などなど、休む間もなく実践を積み重ねていきます。

 その中で最も印象に残ったことを一つ、ホットなうちに皆さんとも共有したいと思います。

デリバリー次第で全く異なる意味に捉えられる

 ストーリーには、伝えたい「ワンビッグメッセージ」を明確に伝える、という目的があります。

 なぜ、わざわざストーリーに乗せるのか。それは、ストーリーが聞き手から様々な感情を引き出すからです。人間は感情を持つ生き物ですから、心が動き、色々な感情を感じることで初めてメッセージに共感し、賛同し、納得します。理論や事実だけでは相手を動かすことはできません。

 しかし、せっかくのストーリーも、デリバリーの仕方次第で、全く異なる意味に捉えられてしまうことがあります。 例えば、こんなスクリプトがあったとします:

 「私は彼女を愛していると言った」

 ちょっと実験してみましょう。この文章を、下記の単語を強調しながら言ってみてください。それぞれどんな意味に聞こえるでしょうか?

①「私は」
②「彼女を」
③「愛している」

①のように、「私は」を強調した場合、「彼女はそう捉えなかったかもしれないが、私はそう言ったのだ」、または、「私はそう言ったがあの人は彼女を愛しているとは言わなかった」というような意味に捉えられることでしょう。

②のように、「彼女を」を強調した場合はどうでしょう。「私は、あの人でもこの人でもなく、まぎれもなく彼女を愛しているのだ」という意味に捉えられるでしょう。

③のように、「愛している」を強調した場合は、またさらに意味が変わってきます。「恋しているとか付き合いたいとかではなくて、愛している、と言ったのだ」という意味に捉えられるでしょう。

 さらに、この文章を、単調に言ってみたり、うれしそうに言ってみたり、悲しそうに言ってみたり、怒りながら言ってみてください。どうですか? 同じ文章でも、どこを強調するか、どう言うのかで、相手に伝わるイメージはガラリと変わってしまいます。