経営戦略を支える人事戦略のあらゆるプロセスに必要となるのが「交渉」だ。新型コロナ禍で、交渉が必要な局面は急速に増えている。事業部門、マネジャー層、そして経営層に対して交渉する時に、その難しさを実感している人事担当者は多いだろう。では、よりよい交渉とはどういうものなのか。これからの日本企業人事に必要な交渉の考え方と実践について、日本交渉協会特別顧問の鈴木有香氏に3回にわたって寄稿いただいた。

「交渉」の本質的な意味

 「勝ち負け」を争う議論や駆け引きも「交渉」の一部ではありますが、交渉にはもっと広い意味があります。「何らかの問題を抱えた当事者同士が話し合いによって問題を解決するプロセス」と考えると、日常の様々な場面で私たちは交渉をしていることに気づきます。下記の事例で考えてみましょう。

 新型コロナウイルス感染拡大防止のために各市を封鎖しているフィリピンでは外出が厳しく制限されています。特に60歳以上の人は市内を歩きまわることさえ許されていません。

 そんなある日、ほうきを売る89歳の女性が、検疫のチェックポイントで働く警察の訓練生に呼び止められました。

 「おばあさん、だめだよ。まず椅子に座って。どうしたの」と言って、訓練生はおばあさんに椅子を勧めて座らせ、聞き取りを始めました。

 「食べ物がなくなってしまいました。このほうきを市場に持って行って売らないと食べ物を買うお金がないの。一人暮らしをしているから自分で行くしかないの」とおばあさんは窮状を訴えました。

 心優しい訓練生はすぐに自分の財布を開いてほうきをすべて購入し、マスクと食べ物をおばあさんに与え、オートバイ型タクシーを手配して家まで送らせました。

 おばあさんとこの訓練生の会話も広い意味で「交渉」と言ってもよいものでしょう。

「次回のオンライン会議の日時を決める」
「研修担当者に現場のニーズを反映する学習活動を入れ込んでもらう」
「事業部門から研修に参加する受講生を出してもらう」
「採用する人数を決める」
「就職説明会の開催とやり方を外部と連携して決めていく」
「パワハラをする管理職を指導する」
「組織のビジョン浸透のために経営陣に動画出演を依頼する」など……。

 社内のあらゆる部署や階層にかかわらず、様々な意見を調整し、合意を取りつけ、問題を解決していく人事担当者の業務は交渉の連続です。もし皆さんが何か問題があると感じ、それを解決するために話し合いをするのであれば、それは「交渉」そのものだと言えるでしょう。

 前述のほうき売りのおばあさんは警察の訓練生と「交渉しよう」とまでは意識していなかったと思います。ただ、「生きるために必要な食料を手に入れなければ」という強い目的意識がありました。その目的意識から発せられた必死な言動を受けて、相手の行動が生まれたのです。交渉の第一歩は「まずは話してみる」というところから始まります。