慶應義塾大学SFC研究所が、中小製造業のデジタル化をリードする新たな人材「ファクトリー・サイエンティスト」を養成する講座を立ち上げようとしている。監修は同研究所所長を務める環境情報学部 教授の田中浩也氏。「ほぼあらゆるもの("almost anything")」をつくるワークスペース「ファブラボ」を国内に広め、日本におけるデジタル・ファブリケーションのムーブメントに先鞭をつけた人物である。同氏に、いま人材育成に乗り出した理由や、ファクトリー・サイエンティストの将来性などについて聞いた(文:松尾康徳)。

―― ファクトリー・サイエンティストとは、どのような人材でしょうか。

田中氏 ファクトリー・サイエンティストは、ものづくりの現場におけるデジタル化を推進し、工場の統括責任者の「右腕」になる人材です。社歴で言うと入社3年目から9年目ぐらい。現場の仕組みをひと通り理解していますが、その会社の長年の習慣に染まっていない人。つまり現状をそのまま受け入れるのではなく、常に新鮮な目で新しい課題を見出せる人です。

慶應義塾大学 SFC研究所 所長 田中浩也氏
(撮影:栗原克己)

 こうした人材の育成に乗り出したキッカケは、革新的な中小企業の経営者として以前から頻繁にお名前をお聞きしていた由紀精密 代表取締役社長 大坪正人氏との議論でした。二人が共通して懸念していたのは、ものづくりのデジタル化が進むと言われているのに、その関連技術に通じている人材を抱えている中小企業が少ないということでした。日本の場合、製造業にかかわる企業のほとんどが中小規模の企業です。このままでは、多くの企業がデジタル化の動きに追随できなくなる恐れがあります。そこで日本国内にある数多くの工場に、こうした人材が行き渡るようにするために、これから必要な人材を育てなければならないという話になったわけです。それから、さらに育成する人材像や求められるスキルなどについて4~5時間にわたって議論を重ねる中で、浮かび上がってきたのがファクトリー・サイエンティストの人材像です。

ファクトリーサイエンティスト養成講座プロモーション動画

 ネーミングについても議論しました。この職種を目指す人を数多く集めるには、科学的な思考など、求められるスキルを表現するだけでなく、職種の斬新さや将来の可能性を感じさせる名称にすべきです。こうして考えて出てきた名称が、ファクトリー・サイエンティストでした。

 ちょうど、この議論をしたころに経済産業省が「産学連携デジタルものづくり中核人材育成事業」を立ち上げ、提案を募集していました。そこで具体的なカリキュラムを作成し、「ファクトリー・サイエンティスト養成講座」として提案したところ、プログラムの1つに採択されたわけです。こうして同事業の支援を受けて、2018年度に5日間の講座を試験的に実施しました。この成果をもとに、カリキュラムや実施方法を検討したうえで、2019年夏に2回目の講座を開講する予定です。第1回では、私たちの伝手を使って直接声をかける形で参加者を集めましたが、第2回は広く一般の方々から参加者を募集する予定です。

講座の様子
(画像提供:慶應義塾大学 SFC研究所)

3つの能力を伸ばす5回の講座

―― 2018年度に実施した講座のカリキュラムについて説明してください。

田中氏 ファクトリー・サイエンティストに求められる能力は大きく分けて3つあります。1つは、データを取得する「データエンジニアリング力」。もう1つは、データを突き合わせて意義のある情報を組み上げる「データサイエンス力」。3つ目は、それを戦略に生かすために知覚化する「データマネジメント力」です。

 これらのスキルと、現場で実践するための知識や技術を効率よく身に付けることができるようにカリキュラムを編成しました。2018年度は、その内容の検証を主な目的とした「ファクトリー・サイエンティスト育成カリキュラム試験講座」を、2018年12月12日~2019年1月30日の期間に5回に分けて実施しました。

 第1回は「ローカル側システムの基礎」。現場からデータを収集するIoTデバイスに関する技術や実践方法がテーマです。温度センサーを搭載したIoTデバイスを実際に開発。「Arduino IDE」と呼ばれる環境で開発できるマイコンボードを利用して、センサーで取得したデータをクラウド・サーバーにアップロードする仕組みも構築します。この中で、3Dプリンターの扱い方を学べるようにしました。実装に最適な形状のIoTデバイスを実現するために、3Dプリンターを使って筐体などの部品を作成します。

 第2回は、「サーバー側システムの基礎」。IoTデバイスで集めたデータを受け取るシステムをマイクロソフトのクラウド・サービス「Azure」を使って構築します。こうした作業は、プログラミングの専門家でないと難しいと思われるかもしれませんが、あらかじめ用意されたモジュールを組み合わせて様々な機能を実現できる仕組みがAzureに用意されています。これを利用すれば、コーディングなどの専門知識は、ほぼ必要ありません。

 第3回は、「データの加工とビジュアライゼーション」。サーバーから必要なデータを抽出して、BI(Business Intelligence)ツールを使って視覚化する手法を学びます。第4回は、「見える化・見せる化のさらなる追求」。スマートフォンやタブレット端末からIoTシステムにデータを入力するアプリを開発します。現場の作業者が各種端末から様々なデータを入力する仕組みを実現するプロセスを学ぶのが、このプログラムの狙いです。最後の第5回は、「最終プレゼンテーション」。第1回から第4回で構築したIoTシステムを持ち帰って、各参加者が自身の現場に実装したうえで、その成果などを1人ずつ発表します。

―― カリキュラム試験講座には、どのような方々が参加されたのですか。

田中氏 講座は、横浜、浜松、熊本の3つの会場をテレビ会議システムでつないで、同時に進めました。本部となった横浜会場には5人、熊本会場には3人、浜松会場には2人。合計10人が参加しました。この中には会社の正式な研修として参加した方だけでなく、社命と関係なく自発的に参加された方もいます。

(撮影:栗原克己)

「ファブラボ」の概念をものづくりの現場に

―― 講座の成果はいかがですか。

田中氏 今回の講座の中で、「金型の温度モニタリングシステムおよびタブレットアプリ」「恒温質の室温モニタリング」「吸湿性のある材料の保管に関する気温、湿度のモニタリング」など、それぞれの受講者が自分の職場のニーズに応じたシステムを考案し、実際に開発にも取り組みました。

 終了後、講座で学んだことを、すぐに自社で実践した方もいました。熊本県の樹脂メーカー、小森プラスチック工業の方です。射出成形機の金型温度をモニタリングする装置を開発し、これを工場の射出成形機に実装しました。これによって、1日6回、工場内を巡回しながら28台のアナログ温度計のデータを読み取る作業が不要になり、1日に180分も担当者の作業時間を短縮できました。実はこの方は、講座に参加する前にはネットワークやセンサーに関する知識はほとんどなかったそうです。

(撮影:栗原克己)

―― IoTデバイスやデータ収集の仕組みを実習で学べるセミナーや講座は、すでに数多く開催されています。こうした既存のプログラムとの違いは、どこにあるのでしょうか。

田中氏 特徴の1つは、データの取得から活用まで一気通貫で学べるプログラムになっていることです。さらに注目していただきたいのが、自社のニーズに適したフルカスタムのIoTデバイスを、3Dプリンターなどのデジタル・ツールを使って自分自身で作成することです。かつてファブラボで展開していたデジタル・ファブリケーションの概念を、センシングやモニタリングに適用したわけです。ファブラボは、あらゆるものを個人で作る「パーソナル・ファブリケーション」の場として注目を集めましたが、企業への展開は、「ものをつくる」というより、むしろ「現場環境をアップデートする」ことを目的とした、デジタル・ファブリケーションの新しい局面だと言えるでしょう。

 受講者が、自分の職場の課題を解決するためのソリューションを開発する点も重要な特徴です。講座で学んだ成果を、そのまま社内に残すことができます。従来のセミナーでは、同じ教材を使って参加者が同じものを作ることが多かったのではないでしょうか。この場合、ツールの使い方は習得できますが、実際に作成したものを自社に持ち帰って活用できるとは限りません。ファクトリー・サイエンティスト養成講座でも教材は用意しますが、教材をどう使うかについては受講者に任せています。

―― 成果がそれぞれの現場に残ることを重視しているのはなぜですか。

田中氏 自分の現場に最適な仕組みは、自分の手で作れるようになることが重要だと考えているからです。最近ではソフトウエアやデバイスのベンダーなどが、IoTを素早く実践するための様々なパッケージやキットを提供していますが、自社の用途にぴったりの仕様を実現できる、いわばかゆいところに手が届く仕様の製品は、なかなか見当たらないのではないでしょうか。そもそも、現場によってニーズは異なります。1つのパッケージやキットで、それらすべてにきめ細かく対応することは不可能です。この問題を解決するためには、ベンダー任せにするのではなく、ユーザー自身が開発した方が有利なのは明らかです。こうした役割こそが、ファクトリー・サイエンティストの重要なミッションだと考えています。

 もっとも自前で進めるのがよいと言っても、あらゆる仕組みを、将来にわたってずっと自前でということまでは求めていません。先進的な技術を持ったベンダーに頼ることも必要でしょう。このときに自前でも開発できるだけの知識や経験があれば、ベンダーが提案するソリューションを的確に評価できるので、ベンダーと協力しながら、かゆいところに手が届くシステムが実現できるはずです。

技術者の新たなキャリアパス

―― 学生など若い人材が、ファクトリー・サイエンティストを目指すようになるでしょうか。

田中氏 すでに、その兆しがあります。ファクトリー・サイエンティストにとって重要なスキルの1つに、データをいかに収集し活用するかを学ぶデータサイエンスがあります。最近では、IT業界だけでなく農業や食品、医療など、業界を問わず共通して必要な素養と位置付けられるようになりました。そこで慶應義塾大学 SFC(湘南藤沢キャンパス)では、このデータサイエンスを必須科目にしています。こうした環境で学んでいる学生たちの間で、製造業に対する関心が以前よりも高まっているようです。実際に私の研究室から、製造業に就いた学生もいます。大学で身に着けた技術や知識を現場で実践し、その成果を実感したいという希望が強く、あえて中小企業を選んで就職しました。

(撮影:栗原克己)

―― それは意外ですね。先進的なデジタル技術を学ぶ学生の間では、もはや製造業は人気がないのではないかと思っていました。

田中氏 今の学生は、生まれた時からインターネットが普及していた世代です。この4月に入学した学生は、多くが2000年生まれですから。この年代の学生にとって、製造業のようにアナログな領域が残っている世界は逆に魅力的に映っているのかもしれません。現場の課題を、大学で学んだデジタルな技術を活用して解決することに働く意義を見出しているのではないでしょうか。

―― ファクトリー・サイエンティストは、どのようなキャリアパスを進むと考えていらっしゃいますか。

田中氏 データという客観的な情報をもとに、企業の戦略を立案する役割を担う重要な人材になると期待しています。経験を積んだファクトリー・サイエンティストの中には、コンサルタントとして独立する人も出てくるかもしれません。そこでも、ものづくりの現場での経験は大きな強みになるでしょう。現場を正しく知っているコンサルタントは、製造業にかかわる企業にとって頼りになるはずです。

 ファクトリー・サイエンティストがスキルのレベルアップを図りながらキャリアパスを築けるように、養成講座を受講した人のコミュニティを立ち上げるつもりです。ファクトリー・サイエンティストの間で情報を共有できる基盤があれば、所属する企業に頼らずとも自らキャリアパスを開拓できるのではないかと考えています。また海外では、既にファクトリー・サイエンティストという肩書きを持つ技術者もいると聞いています。こうした方々と、日本のファクトリー・サイエンティストの交流の場を提供するのもよいかもしれません。

―― ファクトリー・サイエンティスト養成講座の今後の展開について教えてください。

田中氏 夏ごろに実施する2019年度の講座では、スケジュールの組み方など実施形式を変えることを考えています。受講者にとって、もっとも効果的な実施の仕方を探るためです。詳細は、ホームページ等で告知します。

 2020年度からは参加人数の枠を拡大し、大規模に展開するプランを温めているところです。ファクトリー・サイエンティストの輪を日本中の製造業に広げることで、日本のものづくりにおけるデジタル化を後押ししたいと思っています。

(撮影:栗原克己)