日本には、粛々と仕事を続けた先でノーベル賞を受賞した技術者がいる。これこそが、日本のものづくりの強さの本質を、端的に示した事実である。多くのものづくり企業が、国際的な競争力を高めるうえで、イノベーション創出と独創性の大切さを口にしている。ただしそこで、「イノベーションは天才の産物である」といった、神頼みのようなことを言ってしまったら、何の施策もできなくなる。日本は、多様で高レベルな科学技術が集積する稀有な国だ。しかも、チームプレーで研究開発することにも長けている。2002年にノーベル化学賞を受賞した島津製作所 田中耕一記念 質量分析研究所 所長の田中耕一氏は、自らの体験に照らして、こうした日本の特性を生かした異分野融合の重要性を強調する。今も企業に籍を置きイノベーションの創出に挑む田中氏に、日本のものづくりの現場が取り組むべきことについて聞いた。(聞き手=伊藤元昭)

――ノーベル賞を受賞された方に、このようなことをお聞きするのは失礼かもしれませんが、田中さんは技術者なのでしょうか、それとも研究者なのでしょうか。

田中氏 自分としては、よき技術者でありたいと思い仕事をしてきました。しかし、実際には好奇心のおもむくまま実験して面白がってきたように思います。研究者として科学的に探究する側面もありますが、新たな研究に必要な装置を作る時には技術者になります。研究者専業でも技術者専業でもなく、双方の間に立つ翻訳者のような立ち位置ですから、今回お話ししたい異分野融合というテーマはかなり身近な話題です。

島津製作所 田中耕一記念 質量分析研究所 所長 田中耕一氏
(撮影:栗原克己)

――ノーベル賞は、言わずと知れた科学界最高峰の賞であり、独創的な業績を上げた方しか受賞できません。技術者として仕事をされていた田中さんは、受賞を意識していたのでしょうか。

田中氏 全く考えもしなかった受賞でした。私の周囲の人たちも同じだと思います。受賞後、一企業の技術者である自分が、なぜ世界最高峰の賞をもらえたのか、改めてやってきた仕事を振り返りながら自問自答してみたのです。それ以前は、大したことやってこなかったが、それでも人に使ってもらえる装置が開発できてよかったくらいに考えていましたから。レーザーによる質量分析装置を、画期的発明だと評価していただいたということは確かです。ではなぜ、そうした画期的発明に行き着くことができたのか。その答えが最近になって分かってきたような気がします。時間とともに考えが整理されてきたからでしょう。

開発に失敗した技術を多分野に展開

――粛々と仕事をしていた中で、独創的業績に行き着いたということですが、どのような環境の中で、どのような仕事をされてきたのでしょうか。

田中氏 私がしてきた仕事の経緯を、順を追って、お話ししたいと思います。私が入社する前の1982年に、島津製作所 中央研究所に所属する3人のチームが、レーザーを使った表面質量分析技術の開発に着手しました。用途は、金属、半導体、ガラス、セラミックスなど低分子の物質や工業製品の分析です。実は当時、既に他社が優れた性能を誇る同様の装置を製品化しており、それに勝る性能の装置を実現することを目指した開発でした。私は、着手から1年後に新人としてそのチームに参加しました。そのプロジェクトでは、レーザーの集光限界φ1μmを達成するなど技術的進歩はあったのですが、装置の開発としては失敗でした。結局、他社装置と同程度の性能しか実現できなかったのです。

 ただし当時は、こうした失敗した技術を別の分野で活用することを考える余裕がある時代でした。レーザーを使って、次はタンパク質など高分子の質量分析に挑んでみようということになったのです。もっとも、今考えればこれはかなり無謀な挑戦でした。質量分析を行うためには、分析対象の分子をレーザーでイオン化する必要があります。しかし、人の体を形作る高分子に“殺人光線”とも言われていたレーザー光を当てると、その分子が壊れてしまうと考えるのが当然です。つまり、化学を少しでも知っている人ならば、初めから考えもしない開発目標だったわけです。

――常識的には無理筋の開発に、なぜ挑もうとしたのでしょうか。

田中氏 タンパク質など高分子の質量分析ができるようになれば医学や薬学といったライフサイエンス分野に貢献できるのでは、という漠然としたニーズは感じていました。しかし、それにも増して大きな理由は、挑もうとしていることがどれほど難しいことなのか、いま一つピンときていなかったことです。つまり、化学の素人だからこそ挑戦できたと言えるかもしれません。実際に、職場のすぐ隣にいた化学の専門家は、レーザーでタンパク質のイオン化なんてできるわけないと断言していました。

――知識が豊富な人、先が見通せる人は、逆にアクセルが踏めない状況だったのですね。

田中氏 図らずもですが、頭でっかちにならず、挑戦もせずに勝手に結論を出さなかったことがよかったのだと思います。

難問を解くヒントは思わぬところに

――新しい挑戦は順調だったのですか。

田中氏 タンパク質が壊れやすいのは確かですから、挑戦するとなれば、まず分析対象を壊さずにイオン化する方法を探す必要があります。タンパク質自身は、そう簡単に気化しません。解決策として、まず別の物質にレーザー光の光エネルギーを吸収させて、気化やイオン化を促す熱エネルギーに変換する方法が考えられます。そこで、レーザーを吸収する媒体を探すことにしたのです。この媒体探しが最初の関門でした。

――どのように見つけ出したのでしょうか。

田中氏 当初3人の質量分析チームの1人だった吉田佳一が、「日本の科学と技術」という科学雑誌に掲載されていた「超微粒子」という特集記事を見つけたのがキッカケでした。そこには、金属超微粉末の様々な特性について書かれていました。ただし、当然のことですが、私たちが求めていたイオン化に利用するという話が直接書かれていたわけではありません。しかし、そのヒントが書かれていたのです。

(撮影:栗原克己)

――その雑誌は、仕事をしていく中で、読む必要があるものだったのでしょうか。

田中氏 普通は読む必要がない雑誌ですね。金属超微粉末は、高度な冶金技術を持つ日本にしか作れない物質でした。“Japanese Powder”とも呼ばれていたほどです。このため、自分たちとは別の世界の話だが面白そうだ、と感じたので読んだのだと思います。

 大学の先生や研究者は、専門分野を深掘りして探究することに注力します。これに対し、企業に勤める者は、雑誌やテレビなど雑多な媒体から興味を持った知識をかき集め、専門分野にとらわれず様々な場所から知恵を引っ張り出します。目的に対して手段は選ばないということですね。これは、欠点だという人もいらっしゃるでしょうが、確実に利点でもあると私は思います。

――そこには、どのようなヒントが書かれていたのですか。

田中氏 吉田が注目したのは、超微粉末の粒径が小さくなるほど、赤外光の透過率も下がることを示す光学的特性の図でした。透過率が下がるということは、逆にいえば吸収率が高くなるということです。私たちが使っていたレーザーは赤外光ではなく紫外光でしたが、もしかしたら紫外光も吸収するのではないかと考えたのです。当時の金属超微粉末の用途は合金作りが主でしたが、質量分析という全く別の分野に応用できる可能性があったのです。様々なところに情報のアンテナを張っておくことの重要性を感じます。

 雑誌を見て、すぐにメーカーからサンプルを取り寄せました。そして、実際に高分子をイオン化させるための媒体として使えるのか試し、真空冶金製の直径30nmのコバルト粉末を使って分子量数千のペプチド(タンパク質より小さいアミノ酸が鎖状につながった分子)の質量分析ができるようになりました。ただし、この時点では、ライフサイエンスに貢献するために欠かせないタンパク質の測定までは手が届きませんでした。

(撮影:栗原克己)

気づきにはきっかけ、発明にするには洞察

――なかなか一筋縄ではいきませんね。その後は、どうされたのでしょうか。

田中氏 区切りとなる成果は出せたのですが、目標には達していませんでした。しかし、ここからはさらに高いハードルがある予感もありました。ここで、「お前はまだ新人だし、いろいろと潰しが利くだろうからやってみろ」ということで、タンパク質をイオン化する技術の開発を私が引き継ぐことになりました。私は元々電気工学専攻で、化学は得意ではないと思っていました。「でも小中学校の実験が面白かったな」くらいの意識で始めました。「どうせ素人だから、何をやってもいいや」といった気楽さから、普通だったらやらないことができたのだと思います。

――普通ではない、何をしたのでしょうか。

田中氏 様々な媒体を試す中で、従来の分析手法で使っていたグリセリンも試していました。グリセリンは透明な液体で、測定対象の物質が均一に混ざり、分子を壊さずソフトにイオン化するのには役立つのですが、いかんせん紫外光の吸収率が低く、それのみでは高分子のイオン化に使えませんでした。ある時、そのグリセリンと金属超微粉末を誤って混ぜてしまったのです。間違って作ってしまった試料ですから廃棄してもよかったのでしょうが、金属超微粉末とグリセリンが混ざった試料を何気なく分析器に入れてみました。すると、タンパク質がイオン化できたのです。

(撮影:栗原克己)

――どうして間違って作った試料を試したのでしょうか。

田中氏 せっかくの試料がもったいなく感じて、しかも気楽さがあって試したのは確かですが、頭の中ではグリセリンと金属超微粉末という組み合わせに引っ掛かりを感じたのも事実です。私は、大学では電気工学科でアンテナ工学を専攻していました。そして、高層ビルのコンクリート壁にアンテナを埋めておくと、不要な電磁波を吸収することを知っていたのです。コンクリートをグリセリンに、金属の棒であるアンテナを金属超微粉末に、テレビ電波を(同じく電磁波の)レーザー光に置き換えれば同じ図式になります。分かってしまえば当たり前かもしれませんが、異なる分野に発想を展開することは、なかなかできません。

 タンパク質は、それのみでは通常固体です。固体よりも液体の方がガス化しやすいため、タンパク質も何かに溶かし込んでやればガス化しやすくなります。私の開発成果においては、グリセリンがタンパク質をソフトに溶かし込みイオン化する役割を、金属超微粉末がレーザー光を吸収する役割を果たしています。

 科学者ならば、イオン化する仕組みの理屈が先にあって、思い通りの現象を起こさないと学術的な面白みがないと考えるかもしれません。私は技術者ですから、トライ・アンド・エラーでまず試して、うまくいったら後から理屈を考えればよいと考えます。技術者だから、従来の常識、呪縛を超えられることもあるのだと思います。こうして生まれるイノベーションは、実は多いのではないでしょうか。イノベーションを生み出すことをあまり難しく考えず、とりあえず単純にうまくいきそうなものを組み合わせてみるといった発想でよいと思います。