知的障害のある人々に福祉サービスを提供する大分市の社会福祉法人シンフォニー。理事長の村上和子さんは「地域に理解を広めるため、障害のある人が働く店を作ろう」と、1991年に雑貨店をオープン。その取り組みは、作業所や宿泊訓練施設の開設、喫茶店の運営へと広がり、利用者と家族の生活を支えるさまざまなサービスを実現してきた。「ないものは創る」をモットーに、障害のある人が地域の中で働き、地域の人たちと暮らす仕組みづくりに徹して28年。障害のあるなしにかかわらず、誰もが安心して暮らせる社会を目指して前進を続ける。
「卒業したら行くところがない」――。母の声をきっかけに動き出す
――障害のある方が地域で暮らすための先進的な施設や多様なサービスをつくって来られたんですね。何がきっかけで、これらの事業を行うことになったのでしょうか。
村上 83年に出産した長男が最重度のダウン症で、90年に養護学校(当時)に入学しました。ある日、学校に行ったら、中等部3年生のお母さんが「施設はどこもいっぱい。子どもが卒業しても行くところがない」と泣いていました。当時は高等部がなかったんです。うちの子は入学したばかりで、あまり実感が持てなかったのですが、中3の子たちのことを思ったら、人ごとではなくなってしまって。とにかく動くしかない!と施設を見学に行ったり、障害がある人ができる内職を探したりしました。職業別電話帳で紙箱製造の会社など、あちこちに電話をかけて仕事をもらい、みんなができるかどうか確かめるために、夫や母の協力を得て実際にやってみたりもしました。
――お母さんたちと一緒に、通所施設を作ろうと動き出したんですね。
村上 あるとき「どうせなら、入所施設を作ろうよ」という声が上がりました。中学を出た子はまだ15歳。それからずっと施設の中で過ごすの?と違和感を覚えました。お母さんたちは「だって、地域の目が怖いから」と。もちろん、私にも経験があります。でも、施設で暮らしたほうが子どもも親も安心だと聞いたとき、なんか違うと思いました。
ちょうどそのころ、「知り合いに生まれたお子さんに障害があったと分かったらしいけど、どう声を掛けたらいい?」という相談を受けることが何度かあったんです。それで、地域の人も偏見の目だけで見ているわけじゃなくて、どうしていいか分からないんだな、と気づきました。なぜ、こんなことが起こるのか。障害のある人と地域の人との出会いの場がないからですよね。施設を作ったら安心かもしれないけど、まちの人は何も変わらないまま。地域の方に理解していただくための出会いの場として、障害のある人が働くお店を作ろうと思い立ったんです。
――施設ではなくお店、なんですね。
村上 施設はいったんやめて、地域との接点となるお店をつくると言い出したら、一緒に活動していたお母さんたちはみんないなくなりましたけど、逆に吹っ切れて、お店づくりにまい進できました。