知的障害のある人々に福祉サービスを提供する大分市の社会福祉法人シンフォニー。理事長の村上和子さんは「地域に理解を広めるため、障害のある人が働く店を作ろう」と、1991年に雑貨店をオープン。その取り組みは、作業所や宿泊訓練施設の開設、喫茶店の運営へと広がり、利用者と家族の生活を支えるさまざまなサービスを実現してきた。「ないものは創る」をモットーに、障害のある人が地域の中で働き、地域の人たちと暮らす仕組みづくりに徹して28年。障害のあるなしにかかわらず、誰もが安心して暮らせる社会を目指して前進を続ける。

村上 和子(むらかみ・かずこ)
1952年神戸市生まれ。大分大学教育学部卒業後、公立中学校・小学校教諭として8年間勤務。1983年に長男を出産、重度のダウン症と診断される。1990年、長男の養護学校入学を機に母親たちと施設開設の検討を開始。1991年11月、ネバーランドを開店。1998年6月社会福祉法人シンフォニー設立、理事長に就任。2009年大分大学大学院福祉社会科学研究科修了、2013年大分大学大学院経済学研究科後期博士課程修了。2014年大分県地域福祉推進大会知事表彰受賞、2016年大分県女性のチャレンジ賞受賞、2018年内閣府女性のチャレンジ賞受賞(写真:大槻 純一)
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「卒業したら行くところがない」――。母の声をきっかけに動き出す

――障害のある方が地域で暮らすための先進的な施設や多様なサービスをつくって来られたんですね。何がきっかけで、これらの事業を行うことになったのでしょうか。

村上 83年に出産した長男が最重度のダウン症で、90年に養護学校(当時)に入学しました。ある日、学校に行ったら、中等部3年生のお母さんが「施設はどこもいっぱい。子どもが卒業しても行くところがない」と泣いていました。当時は高等部がなかったんです。うちの子は入学したばかりで、あまり実感が持てなかったのですが、中3の子たちのことを思ったら、人ごとではなくなってしまって。とにかく動くしかない!と施設を見学に行ったり、障害がある人ができる内職を探したりしました。職業別電話帳で紙箱製造の会社など、あちこちに電話をかけて仕事をもらい、みんなができるかどうか確かめるために、夫や母の協力を得て実際にやってみたりもしました。

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知的障害を持つ人が地域の中で働く「ネバーランド」事業。ネバーランドコンパル店の前で村上さんとスタッフの集合写真。同店は、客席数50席の喫茶店。いつもにぎわっているが、知的障害のあるスタッフも健常者とともにきびきびと働いている。同事業は、障害者と雇用契約を結び就労機会を提供する就労継続支援事業A型である(写真:大槻 純一)

――お母さんたちと一緒に、通所施設を作ろうと動き出したんですね。

村上 あるとき「どうせなら、入所施設を作ろうよ」という声が上がりました。中学を出た子はまだ15歳。それからずっと施設の中で過ごすの?と違和感を覚えました。お母さんたちは「だって、地域の目が怖いから」と。もちろん、私にも経験があります。でも、施設で暮らしたほうが子どもも親も安心だと聞いたとき、なんか違うと思いました。

 ちょうどそのころ、「知り合いに生まれたお子さんに障害があったと分かったらしいけど、どう声を掛けたらいい?」という相談を受けることが何度かあったんです。それで、地域の人も偏見の目だけで見ているわけじゃなくて、どうしていいか分からないんだな、と気づきました。なぜ、こんなことが起こるのか。障害のある人と地域の人との出会いの場がないからですよね。施設を作ったら安心かもしれないけど、まちの人は何も変わらないまま。地域の方に理解していただくための出会いの場として、障害のある人が働くお店を作ろうと思い立ったんです。

――施設ではなくお店、なんですね。

村上 施設はいったんやめて、地域との接点となるお店をつくると言い出したら、一緒に活動していたお母さんたちはみんないなくなりましたけど、逆に吹っ切れて、お店づくりにまい進できました。

夢と冒険の島「ネバーランド」を開店。ピンチを乗り越えて確信つかむ

――どんなお店をオープンしたんですか。

村上 自宅の一角に小さなログハウスを建てて、ファンシー小物を販売する「ネバーランド」というお店を91年11月にオープンしました。店の外ではご近所の方々の応援で野菜の朝市も開催して。オープンからしばらくして、障害のある方3人に働いてもらえるようになりました。ただし、どこにも「障害者の店」といった看板は掲げませんでした。

 店名はピーターパンに出てくる「夢と冒険の島」にちなんでいます。知的障害を持つ人たちにとって、外はドキドキ、ワクワクする夢と冒険の世界ですから。そして、ネバーランドの本当の意味は「存在しない島」。いつの日か、このネバーランドが必要なくなる本当の共生社会ができることを願う意味も込められています。

「障害者の働く店、地域と接点になれる場所をつくりたい」との思いで91年にオープンしたファンシーショップ「ネバーランド」。現在は施設の一角に移築されている。このお店から事業がスタートした(写真:大槻 純一)
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――お店の資金、仕入れや販売のノウハウはどうしたんですか。

村上 銀行からの借り入れは、個人の私ではなかなかOKが出なかった。県の広報課の方に、女性はお金を借りにくいという話をしたのがきっかけで、「やさしさライフビジネス支援資金」という県の融資制度ができたんです。第1号として500万円近く借りました。仕入れや経営に関しては、お店を持っている知り合いに聞きました。動けば、いろんな情報は入ってくるものです。1号店の翌年には、隣町に2号店を開店しました。

――このお店を経営する中で、印象に残っていることはありますか。地域の方とどんな出会いがあったのでしょうか。

村上 最初は障害のある人が働いている姿をかわいそうだと思って、毎日、大量に買い物をしてくださる方がいました。寄付の気持ちからか、50円のきゅうりを買って1万円を置いていくような方もいて、慌てて追いかけて、おつりを渡したこともありました。でも、しばらくするとそうした「同情買い」はなくなりました。そのとき、やっと対等な店員とお客さんになったと感じました。同情買いは長く続きませんから。

 それと、お昼ごはんはみんなで、近くの飲食店に食べに行ったり、お弁当を買ったりするようにしたんです。スタッフもどこかの「お客さん」になるので、地域にとって「必要な人」になれます。買い物や飲食店の利用という経験は、社会生活力の向上にもつながりました。

(写真:大槻 純一)
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――2号店の後、ケーキショップもオープンされていますね。

村上 みんなで行っていたうどん屋さんが「閉店するので引き継いでやってみないか」と声を掛けてくれたんです。それをあるお母さんに話したら、「障害者が作ったうどんなんて、誰が食べにくるの?」と。そうなのか……とあきらめたんですが、食べ物を扱うならあえて生もので勝負しよう!と思ったんです。よりハードルが高いものに挑戦すれば、「障害のある人が触ったものは汚い」という概念がなくなるんじゃないかと。仕入先を探したところ、有名菓子店から独立した方の協力を得ることができ、ケーキショップをオープンできました。

 次に開設したのが、包装センターです。主に会葬御礼品を包装する作業所を93年3月に開設しました。ここも閉鎖的にならないよう、地域から有償ボランティアを募って入っていただいています。場所は、地元の方がプレハブを建てて貸してくれました。

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包装作業は、雇用契約を結ばずに就労機会を提供する就労継続支援B型事業として「コンチェルト」事業に受け継がれている。ポップな音楽が流れる事業所で箱詰め作業をする(写真:大槻 純一)

――大家さんが、貸すためにわざわざ建物を建ててくださったということですか。大家さんはお知り合いだったんですか。

村上 同じ地区の方で、土地をお持ちと聞いてお願いに行きました。実は、周囲の方からは「障害のある人になんか、貸すもんじゃない」と心配されたそうです。でも、私たちを信頼して、数年後にはプレハブから立派な建物に建て替えてくれました。心配していた方もすっかり変わって、認めてくれているそうです。

――ネバーランド2号店が放火に遇うという怖い経験をされたそうですね。

村上 2号店は数軒の店が入っている平屋建てでした。隣の店を狙った泥棒が、深夜にうちの店の裏口のガラスを割って侵入し、壁に火をつけたんです。火事になった時、足が震えました。これまで築いてきた地域の方との絆、信頼関係を失ってしまったと落ち込みました。一番心配だったのは「障害のある人の店は火事を出す、障害のある人は危ない」というレッテルを張られること。それが本当に怖かった。

 火事の後、地域の方から電話がかかってきました。てっきりお叱りの電話と思い、平謝りしていたら、「違うんや。わしはあんたを励まそうと思って電話したんじゃ」とおっしゃるんです。「みんな知っちょる。あの店は火の気もないし、みんな一生懸命頑張っている。心配せんでいいけん、とにかく頑張りよ。また店を開きよな」と。その後、いろいろな方から励ましの電話、手紙やファクスが届き、義援金も寄せられて、店はすぐに再建できたんです。

 大変な思いをしましたが、このことがあったおかげで、自分たちがやろうとしていることは間違いないんだ、と確信を持てました。地域の方々はちゃんと見ていてくださっていた、理解は広まっていたんだ、と。

移動、食事、消費、気くばり。4つの力の習得を支援

――次々の新しい事業を始められていますね。5番目の事業所となったその名も「五番館」という施設はどういうものですか。

村上 親に頼らずに暮らせるよう、自宅での生活力をつけるための1泊2日の短期宿泊訓練を行う家です。利用者は買い物をしてごはんを作ったり、お風呂の準備をして入浴したり、布団を敷いたり、といったことを練習するのです。日常生活に必要なことを身につける機会をつくりたいと思って、包装センターの大家さんに相談したら、平屋の一戸建てを建ててくれました。驚いたけど、本当にありがたかった。この取り組みがやがて大分市の公的サービスになり、今では他の法人も宿泊訓練を行っています。

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「ファミール中尾」は、同じ建物の中で、グループホームとケアホームの支援を行う。障害のある人が住み慣れた地域で暮らすことが目的だ(写真提供:シンフォニー)
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短期宿泊施設「五番館」。短期宿泊により家庭で暮らす力を養う。この事業は、大分市独自の地域生活支援事業の一つとして公的なサービスに発展した(写真提供:シンフォニー)

――村上さんは障害のある人がつけたい力として「4つの力」を挙げていますね。

村上 自力で目的地に行く「移動の力」、空腹になったら飲食店などを利用する「食事の力」、必要なものを購入する「消費の力」、社会のルールやマナーを守る「気くばりの力」です。働いて得たお金を持って、休日にバスに乗って街に出掛けて食事をしたり、買い物やカラオケを楽しんだり。帰宅後や余暇の時間の使い方を学べば、地域での生活をより楽しむことができます。生活に必要な力がつくよう支援していくと「分からないときは誰かに聞く」という力もついてきました。

――喫茶店を手掛けることになったのはどういう経緯ですか。

村上 文化ホールや会議室などを備える大分市の複合施設、コンパルホールで喫茶ネバーランドを98年から運営しています。人がたくさん集まる場所なら、より多くの方と出会えると考え、市の募集に手を挙げました。とはいえ、喫茶の経験はありませんから、説明会の後にあるコーヒー会社に行って「喫茶店はどうやったらオープンできるんですか」と教えを請いました。

――すごい行動力ですね。お知り合いの方ですか。

村上 いえ、また職業別電話帳を見て連絡したんです。ここのコーヒーはわりとよく飲んでたな、というノリで選びました(笑)。

――コーヒー屋さんに教えてもらって、喫茶店事業を始めるんですね。

村上 調理をはじめ、素人がなんでもできるわけではないので、経験のある方に従業員として入ってほしいと思い、知り合いに聞いたら見つけてくれたんです。喫茶店経営の実績があってスタッフ教育もできる、願った通りの方に来ていただけました。

――どうやって初対面の人から力を貸してもらうんですか。合意形成のために、心を砕いていることはありますか。

村上 何もないです。ただ正直にありのままの状況を話すだけです。すべてを包み隠さず話して、頼る。私が頼ったら相手も「この人、一人じゃできないな」って思うのか、助けてくれるんです。

通所授産施設とデイサービスセンターを同じ建物内に開設

――1998年に社会福祉法人を設立されました。きっかけは何でしょうか。

村上 利用者さんに障害の重い方が増えていたんです。作業をすることは難しいものの、音楽をかけたら笑顔になる。その姿を見て、働く場があるだけではだめなんだと感じて、もの作りやレクリエーションなどを行う、知的障害がある人のデイサービスセンターがあれば、と思ったんですね。その事業は社会福祉法人じゃないと運営できないので、法人の認可を取ろうと行政に相談しました。98年6月にシンフォニーとして法人格を取得し、翌年4月に「コンチェルト」(授産施設)と「ファンタジア」(デイサービスセンター)を作りました。

――授産施設とデイサービスセンターを同じ場所にしたのはなぜですか。

村上 その当時まで、一つの事業は一つの建物で行うと決まっていて、二つの事業を行うには、別々の敷地に建物を建てないといけなかったんです。すると、障害の重い人と軽い人を分ける必要がでてきますが、その線引きは難しい。建物は同じだけど、授産施設の作業とデイサービスの活動を別々の部屋で行う、という形にできたら……と市に相談したら「それはいいアイデアだ」と国に掛け合ってくれた。それで、全国初の合築施設ができたんです。利用者は両方を試してみて、希望するほうを選ぶことができます。

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1999年に開所した「シンフォニー」は、授産施設「コンチェルト」(上右)とデイサービスセンター「ファンタジア」(上左)を行う全国初の合築施設となった。その中には児童デイサービス事業「ま~ち♪」も行っている(中)。シンフォニーの建物(下)(写真:大槻 純一、給食写真はシンフォニー提供)
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――それまでにあったお店や施設はどうされたんですか。

村上 コンパルホールの喫茶だけを残して、すべて施設に移転しました。とても残念でしたが、ある程度の人数がいないと建築の許可が下りなかったので。この施設の4分の3は補助金を使って、残りは夫と私が私的に積み立てていた年金や借りたお金を法人に寄付するという形で賄いました。

――法人ができて、変わったことはありましたか。

村上 この施設ができてから、マイクロバスで送迎を行い、給食を用意しました。すると、利用者さんが自分で移動したり、お金を使ったりする機会がなくなってしまったんです。これでは、せっかく身につけた社会生活力を失ってしまう、このままではいけないと思いました。まず、自力で通える人はバスを使ってもらうようにし、昼食は給食ではなく食堂にして、好きなものを選んでお金を払う形式に変えました。

 そしてもう一度、まちの中で働く場を増やそうと、市役所、県庁、医療系の大学、警察署などに喫茶をオープンしていきました。現在、7店を運営しています。

――喫茶ネバーランドで障害のある方が働く意味を教えてください。

村上 行政を担う市役所や県庁の職員、医療を学ぶ学生、警察の方たちに障害のある人を知ってもらう機会ができます。適切な環境と支援があれば、知的障害のある人がこんなふうに働けるんだということが分かってもらえる。理解が広まって、障害のある人がまちの中で暮らしやすくなる、それが狙いです。

――ネバーランドの経験をもとに、一般就労に移行された方もいらっしゃるんですよね。

村上 最近では高齢者施設の食堂で働き始めた方がいます。慣れているせいか、自信を持って楽しく働いているようです。飲食業や清掃業は人手不足がさらに進む分野。そういうところで働ける力があれば、雇用につながりやすいのでは、という思いもあります。

「ないものは創る」を実行し、利用者のニーズに応える

――ホームヘルプサービス、児童デイサービスなど、先進的なサービスを次々と始められて、事業が多岐にわたっていますね。

村上 ニーズを聞いて「ないものは創る」を実行してきただけです。家庭内での困りごとを耳にし、日常生活の支援を行うホームヘルプサービスを(99年12月)、未就学の子どもを通わせるところが欲しいというお母さんの声から、児童デイサービス「まーち♪」を(2000年10月)、専門の相談員がいたら安心かな、と思い相談事業の「コーラス」(10年10月)を、という感じです。「コーラス」とは「Call us」、「電話をください」という意味です。

――福祉事業に携わって約30年、世の中が変わってきたなと思うことはありますか。

村上 今は当たり前のように多くの方がネバーランドを利用してくださるし、大分市内では他の法人も公共施設の中で飲食店を営業しています。以前、ネバーランドに研修に来た福島県須賀川市の方が、市役所の中に喫茶をオープンさせました。障害のある人が業務に従事して、まちが変わっていくと思うとうれしいですね。

 大分県内で18年に一般就労として就職した人が200人近くいるそうです。保護者の意識も変わったし、企業側の採用の流れもできてきた。とてもありがたいことです。

――では、今後の課題を教えてください。

村上 福祉サービスは充実してきましたが、財源には限りがあります。場合によっては、家族や支援者で工夫することで、公的サービスを使わずに済むことがあるかもしれないと考えています。

 また、行政が私たち事業者にさまざまな事業を委託してくれるのはありがたいのですが、その分、行政の方が直に障害のある人やご家族に会う機会が少なくなっている気がします。現場で何が起きているかを見ていただく機会をもっと増やしていただけると安心ですね。

 シンフォニーとしては、就職する人をどんどん増やしたいのですが、もしうまくいかなかったら、いつでも戻ってきてもらえるシステムを用意しておきたいと思っています。

 障害のあるなしにかかわらず、誰もが安心して暮らせる社会こそ良い社会だと思うんです。そのために、これからもどんどん動いていきます。

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障害者の仕事がなかなか見つからないと言われるが、村上さんは、障害者の仕事を創り出してきた。メンテナンス会社の仕事を見て「窓ガラス清掃ならできるのではないか」と思いつき、メンテナンス会社に協力を求め技術を教えてもらい、メンテナンス事業も開始した(左)。大型のリサイクル工場は5福祉法人それぞれの得意分野を生かして協働している(右)(写真:大槻 純一)
(写真:大槻 純一)
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インタビューを終えて

 知的障害のある人が尊厳を保ちながら生きるにはどのような社会であるべきなのか?そのようなことをずっと考えていました。なぜなら、私の孫に知的障害があると分かったからです。いずれ私も、親もいなくなった後も彼は何十年も生きることになる。その時にも自分らしく生きられるようにするためにはどうしたらいいのだろう――その解を見つけるためにシンフォニーに伺いました。そこで穏やかに過ごされている方、箱詰めの作業に一生懸命な方、さまざまな方にお会いしました。一番驚いたのは、喫茶店ネバーランドにて笑顔で颯爽と働く姿を見たことです。「どうもありがとうございました。気を付けてお帰りください」と私たちに声をかけてくれました。”…なんと礼儀正しい好青年だろう”と思いました。自分の中にあった”障害者が弱いもの、守られるべきもの”という固定観念を恥じました。村上さんのミッションである障害のある人が、「まちで働き、まちで暮らす」実践を目の当たりにし、「ないものを創る」をモットーに社会を変革してきた村上さんの情熱に感銘を受けました。

麓 幸子(ふもと・さちこ)
日経BP総研 フェロー
麓 幸子(ふもと・さちこ) 麓幸子(ふもと・さちこ) 1984年筑波大学卒業。同年日経BP社入社。88年日経ウーマンの創刊メンバーとなる。06年日経ウーマン編集長。12年ビズライフ局長。日経ウーマン、日経ヘルスなど3媒体の発行人となる。14年日経BPヒット総合研究所長・執行役員。15年日経BP総合研究所副所長。16年執行役員。18年現職。2014年法政大学大学院経営学研究科修士課程修了。文部科学省、内閣府、林野庁、経団連・21世紀政策研究所研究委員などを歴任。筑波大学非常勤講師。一男一女の母。著書等に『女性活躍の教科書』『なぜ、あの会社は女性管理職が順調に増えているのか』(日経BP社)、『企業力を高める―女性の活躍推進と働き方改革』(共著、経団連出版)、『就活生の親が今、知っておくべきこと』(日本経済新聞出版社)などがある。

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